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335: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/12(水) 21:29:41.81 ID:kE10GcaOo




 予定では、一週間程度で基礎体力を麗さんの望む通りに仕上げ、その後にCDを聞かせてレコーディングとライブ用のパフォーマンスの練習をする事になっている。 

 一悶着あった初日も、結果的に麗さんの思惑通りという訳ではあったが無事終了した。 
 モチベーションも十分だし、これなら良い状態で明日を迎えることができるだろう。 


「あの、Pさん」 

 仕事面でも彼女の負担にならない程度に組まないとな、とハンドルを握りながら考えていると、翠は運転する俺を見て切り出す。 

「どうした、寒いか?」 
 暖房のツマミを回して強くしてやると、いえ、違うんです、と否定される。 

「…これからはしばらく学校も休みがちになるんですよね」 
 改めて聞かされたその声には、若干の揺れが含まれていた。 

 彼女の言う通りで、前回以上に詰め込んでレッスンを行うためにやむを得ず学校を休む日を多くすることに決まっていた。 

 当然仕事に関しても減らす、あるいは麗さんの休養日に合わせて行うようにし、レッスンの時間を削る事のないようにしなければならない。 

 なので、フェス後もスムーズに以前の仕事のペースに戻りやすいように営業は普段以上に行わなければならず、今まで通り翠に常に付きそうような形は取り辛くなってしまう。 

 これからは俺は営業、翠はレッスンと別行動をする時間が多くなるだろう。 


 その間、きっと孤独感といったものが彼女に襲いかかる。 

 単身東京に出てきた翠にとって、親しい人物は俺とちひろさんとその家族、そしてゆかりだけだからだ。

 地元であれば、俺やちひろさんが居なくても学友が居たから何も問題はなかったが、これからは違う。 

 俺も仕事の付き添いであったり、レッスンでも一日一回は必ず顔を出すなりして和らげる努力は行うつもりではいるが……。 





336: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/12(水) 21:30:10.85 ID:kE10GcaOo




「安心してくれ。勿論麗さんとの一対一のレッスンが多くなるだろうが、俺も極力顔を出すようにはするからさ」 

 彼女の意図やこれから言わんとする要望は十分に理解できる。 

 しかし、それを聞く訳はいかない。 
 そんなことに時間を大きく割いてはいけないからだ。 

 時間はまだある、が、ゴールには程遠い。翠には辛くとも頑張ってもらうしか無いのである。 

 当然だが学校を完全に休むという訳ではないので、レッスンの休日には学校に行かせる選択肢も用意している。 
 これならば精神的なストレスにも多少は効果があるはずだ。 


「…じゃあ、撫でて下さい」 
 そう伝えると、助手席の翠はそっと頭を横に傾けた。 






337: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/12(水) 21:30:55.24 ID:kE10GcaOo



「今運転中だぞ、全く……ほら」

 一体どうしてこんな事になってしまったか。

 由来は定かではないが、もはや彼女のこの願いを聞くのが当たり前になってしまっていた。
 流石に人前ではアイドルに対するイメージもあるため自重しているようだが、以降は車内や事務所内などで時折頼まれるようになっていた。

「…やっぱり変でしょうか」
 不意に翠は呟いた。


 変、といえば変だ。
 感受性豊かな女子高校生が赤の他人たる男に頭を撫でさせるという行為が如何に非常識であるかは、火を見るよりも明らかである。

 だが、伝えるという選択肢だけは頑なに拒否をする。

 …それをしてしまったら、一体彼女はどうなってしまうのだろう。


 直接的な褒美を願わずに、ただ俺の手だけを求める。
 図らずとも非常識が常識なりつつあるこの今を壊すのは、あまりにリスクが大きすぎるのだ。

「変じゃないさ。…俺も翠の髪を撫でるのは好きだからな」

 確かに変なのは間違いないが、それで今彼女は上手く行っているのだから止めることは難しい。
 ならば、素直に聞いてやるのが吉だろう。

「……そうですか」
 目を閉じてそう言う翠の表情は、さながら女優のようだった。





338: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/12(水) 21:31:22.00 ID:kE10GcaOo



  *



「あー……。お姉ちゃ――いえ、姉が失礼なことをしてしまってすみません」

 麗さんとのレッスンの内容についての打ち合わせのため、都内のいつものスタジオに早々に到着してエントランスで待機していると、偶然彼女の妹…普段のトレーナーである慶さんに出会った。

「今は仕事中じゃないので、言い辛いならそのままでいいですよ」
 言い直す仕草は歳相応と言った可愛げがあったが、特に改まった礼儀が必要なほど俺と慶さんは遠い距離ではないはずだ。

「それなら…ええと。私からも謝ります。ご迷惑かけます」
 ぺこりと頭を下げる慶さん。

「いや、そんな程でもないですよ。…というか、麗さんは誰に対してもあんな感じなんですか?」
 少なくとも、姉の所業を何度も見てきたかのような態度だ。
 でなければわざわざ謝りはしないだろう。

「確かにトレーナーに身を置いて長いし優秀なので会社からの信頼は厚いんですが、私も勉強としてお姉ちゃんを見ていると、ややアイドルの反骨心に賭ける部分もあって…」

 過激、というのは無論初日に翠にかけた言葉の数々だろう。

 決して暴言なんて野蛮なものではないが、人によっては尊厳を踏みにじるようなものと捉えられても不思議ではない。

「驚きましたよ、私も。でも、翠は麗さんに負けないで食いかかって行ってくれた」
「同じ意見です。…強い子だとは思ってましたけど、まさかあんな反応ができるとは考えられませんでした」

 麗さんと翠の顛末を慶さんに話した時、彼女も大層驚いていた。

 翠は静かながらもひたむきに努力する人間だと表面上は見えてしまうが、なかなかどうして熱い闘志を持っている。
 昨今においては稀有な人格の持ち主と言えよう。





339: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/12(水) 21:34:23.65 ID:kE10GcaOo



「今、慶さんは何をやっているんですか?」
 元々翠の担当トレーナーという役職で契約していたため、今のレッスンは麗さんが担当している以上、何をしているのか俺にはわからなかった。

「休憩、というと聞こえはいいですが、今は色んな子…新人の子を見て回って指導しています」
「すみませんね、翠との契約だったのに」

 現在はある一人との専属形式は取らず、言うなれば非常勤講師的な役割であちこち動き回っているらしかった。
 営業であることを除けば、おおよそ俺との違いはない。

「いえ、私はこの機会を利用して勉強していますから、またレッスンする頃には私もパワーアップしてますよっ」
 ぐ、と両手を握り元気なアクションを見せる。

 麗さんとは違った少女らしさ、元気さを感じ取り、いや慶さんもいずれ姉のようにベテランの風貌を見せるのか、といささか残念な気持ちが出てきてしまう。

「はは、翠もパワーアップしてますから、覚悟してて下さいよ」
 今のこの和んだ場に相応しい笑みを浮かべると、彼女もにこりと笑って返事をしてくれた。





340: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/12(水) 21:35:10.15 ID:kE10GcaOo



「――あと、杞憂かもしれませんが……翠ちゃんには気をつけて下さい」
「どういうことです?」
 そろそろレッスンの時間だ、と慶さんは立ち去る寸前で意味深な事を口走った。

 担当トレーナーからの懸念。
 実の姉が担当するとなっているにも関わらず切り出すということは、何らかの確証があるということだろうか。

「いえ…その、翠ちゃんってとっても真面目で練習熱心で、そのせいで私もつい指導に熱が入ることがよくあるんです。お姉ちゃんも翠ちゃんみたいな子が大好きですから、私以上にハードとなると何が起きるか…」

 姉の性格を汲み取った予測だったが、間違いとは思いにくい。
 初めこそあんな口調だったものの、それからは翠のことをよく気にかけて熱心に指導してくれているのが、外野の俺にもよくわかっていた。

 それに、翠の性格への言及も的を射ている。

 彼女の言うとおり、真っ直ぐに向かっていけるのは翠の良さだ。
 麗さんに対しても進んで指導を請い、なかなかのスピードで習得をしていっている。


「慶さんも翠の事、よく考えてくれているんですね」
「け、慶さんって…」
 相手を称賛するように言うと、別の部分で彼女は顔を赤らめる。

「ああ、いや、すみません。姉妹二人と交流を持ってると苗字だと混同しやすいので、つい」
 俺も反応の意味に気付いて取り繕う。





341: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/12(水) 21:35:47.96 ID:kE10GcaOo



 今のように一人相手だと青木さんという呼称で十分だが、二人同時に話すこともあると苗字呼びでは混同してしまう、と頭で考えていた事が不意に出てしまったのだ。

「別に嫌な訳じゃないですよ――う、嬉しいですし! もしよければこれからもそのままでお願いしますね!」
「え、まあそういうことでしたら…今後ともよろしくお願いします、慶さん」

 不意に訪れた予想外の展開に困惑しつつも、慶さんは改めてエントランスを立ち去っていった。

「慶さん、か。翠と殆ど変わらないのに不思議なもんだ」

 真面目で真っ直ぐなのは慶さんも同じだろうに、と俺は苦笑し、もうすぐ来るであろう麗さんの到着を再び待ったのだった。





342: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/12(水) 21:36:39.43 ID:kE10GcaOo



  *



「それじゃ、明日までに曲を慣れてくれ。以上だ」
 レッスンの終わり、クールダウンを終えて帰宅しようかという頃、麗さんは翠にCDを手渡した。


 麗さんのレッスンが始まって五日。

 翠のやる気も相まってか、レッスンの習得スピードは麗さんの想定を上回り、予定よりも若干早目に表面上の初披露となった。

 表面上というのは、初日の時点で俺が聞かせてしまった故の表現である。

 彼女の意図に外れた行動をとってしまったのだから責められるは俺であって翠ではない。
 まあ、バレたとしても恐らく大した損害ではないはず。

 大丈夫だとは思うが念の為謝罪の口上でも考えようかとしていると、麗さんは俺の下にやってきた。

「ほら、プロデューサー殿にもこれを」
 汗で薄い服が体に張り付いて、上気した全身からは石鹸の香りが漂ってくる。

「あ、ああ。ありがとうございます。…お、歌詞カードまで入ってるんですね」
 流石指導を続けるベテランだ、引き締まった肢体はアイドルとしても十分やっていけそうである、とついつい考えてしまった事をすぐにかき消す。


 クリアのCDケースに目をやると、中には簡素な紙の歌詞カードが入っていた。

「当然だ。字面から感情を励起させるのが重要なのだからな。プロデューサー殿は既に聞いているだろうが、これからもよく聞いて、翠を適切に指導できるように準備しておいて欲しい」
「わかりました。カラオケで90点出せるぐらいに頑張ります」
「…そういうことを言っているんじゃないぞ」
 彼女は俺の胸を小突くと、くすりと笑ってみせた。

 あまり破顔することはないように見えても、目を細めて小さく笑う表情はなんとも言いがたい綺麗さがあった。





343: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/12(水) 21:38:54.57 ID:kE10GcaOo




「それと、レコーディングの予定も早めますかね?」
 レコーディング、すなわち収録というのは、フェスでの披露と同日に発売する予定のCDの事だ。

 歌を歌わせたいと営業をかけても気にかける素振りすらみせなかったレーベルが、自前で音源も全て確保できているということを種に粘り強く交渉すると、なんとか合意にまで至ってくれたのだ。

「いや、収録で手間取りたくはない。ボーカルレッスンを増やして予定はそのままにしよう」
 麗さんはポケットの中のメモを取り出して何かを確認する。

「はっきり言って歌唱レベルはまだまだだ。だからその時までに私がなんとかしてみせようじゃないか」
 内心では彼女も楽しんでいるんじゃないかと思えるような節が時折見え隠れしている。

 仮に俺が指導する立場だとしても、やる気のない生徒よりもやる気のある生徒の方が楽しいと思っているだろうな。

 そもそもアイドルになる人間がやる気が無いなんて、その場でクビになってもおかしくないし、大抵の場合はスカウトの時点でお断りである。





344: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/12(水) 21:39:49.56 ID:kE10GcaOo




「頼もしいですね。麗さんもフェスに参加して翠の隣で歌っちゃいますか?」
「んな、何を言っているだキミは…!」

 あ、麗さんはこんな表情もするのか。

 小さくのけぞり、赤らめつつ呆気に取られた顔をしている彼女がトレーナーで終わるのは勿体無い気もした。

「はは、冗談ですよ。イケるとは思いますけどね」
「巫山戯るのも大概にしてくれ。…私にそんなことはできないよ」

 …まあ、それは彼女が決めた人生なのだから俺がとやかく言う話でもないか。


「それでは明日もここで?」
「問題ない。明日でとりあえず歌えるレベルにまでは到達させてみせる」

 なんとも心強い言葉だ。

 それも、麗さんが培ってきた経験と知識に依るものなのだろう。
 彼女の表情に一切の不安の色はない。

「わかりました。…今日もありがとうございました。明日もよろしくお願いします」
「ああ。よろしく頼む」

 軽く礼をすると麗さんも礼をし、小さな笑みを見せてから俺の横を通って部屋を出て行った。





345: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/12(水) 21:40:18.90 ID:kE10GcaOo



「…将来は慶さんもあんな感じになるのかなあ」
 まだ鼻に残る微かな香りを感じていると、慶さんの将来がイメージされる。

 いや、あの可愛げな顔で勇ましい台詞は似合わないか。

「Pさん…」
 勝手に失礼な事を想像して思わず笑うと、いつのまにか着替えを済ませていた翠は俺の肩を叩く。

「ん……ああ、ごめん。じゃあ帰ろうか」

 汗も完全ではないが乾かしていて、風呂あがりのようなまとまらせた髪を揺らした翠は何故か不満そうな顔つきになる。

 何があったのだろうと訊ねようとすると、彼女はとんでも無いことを口走った。

「…浮気は駄目ですから」


 ……一体翠は何を言っているんだ。





346: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/12(水) 21:40:46.19 ID:kE10GcaOo



  *



「声の引き上げができてないぞ。もう一度だ」
「はい――」

 一字一句をはっきり言うのではなく、大事なのは全体の波だ。
 麗さんはそこを絶対視しており、翠への指導もその点を欠かすことはなかった。



 レッスン場。

 CDプレイヤーから流れるオフボーカルに合わせて翠は歌う練習をかれこれ一週間程度続けている。
 練習を始めたのが十月からなので、あともう少しすればフェスまであと一ヶ月となろうかという頃だ。

 ここからは、まず静止した状態での歌唱を上達させ、次にフェス会場の構造を研究した上で適切なダンスを教えることとなっている。

 たとえば大勢のバックダンサーと共に激しいダンスをしながら歌うのであれば、その関係者とともに綿密な連携を練習することが大事だが、今回翠のデビュー曲であるこの歌に限ってはそれが必要とならない。

 あくまで静かに、それでいて心に強く訴える激しさを伴うリリックが最も重要なのだ。
 それ故に、こうしてボーカル練習に多くの時間を割くことができているのだった。





347: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/12(水) 21:41:53.36 ID:kE10GcaOo





「今のところは良いが、声の切り方が強すぎる。下りを意識しろ、いくぞ」

 プレイヤーを停止させたかと思えば、少し巻き戻して麗さんの思う訂正箇所から再生を始める。
 全く翠の発言を許す隙もなく、絶え間なく練習が続く。

 止むを得ない、と言えばその通りなのだろう。
 なにせ、時間がないことにはかわりがないのだ。

 それでも学園祭より倍近く時間がとれているというのだから、この練習がどれほど濃密なのかはもはや言うまでもない。


 俺は今日の分の営業を終えてからレッスンを見に来たので、もう日は完全に落ちきっていた。
 ということは、翠は仕事の予定が今日は無いので、朝からぶっ通しでやっていることになる。

 休養の時間や頻度については俺よりも麗さんの方が博識だと思うので、レッスンのスケジュールは基本的に彼女に任せている。
 仮に俺が仕切ってしまえば、変に過保護になってロークオリティのパフォーマンスを披露することになるとかなってしまうのかもしれないのだから、納得はしている。

 麗さんも麗さんでスケジュールを決める時は俺に逐一打ち合わせという形で報告してくれるし、何よりその時の進行状況で臨機応変に変えてくれるので不安はない。





348: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/12(水) 21:42:47.93 ID:kE10GcaOo



「よし、休憩だ!」
 何度も繰り返されるBメロからサビへの移り変わりが、ぱん、ぱんという麗さんの拍手と共に打ち消された。

 時間的に、あとは最終確認という形で流すように復習するのだろうか。


「……ひとまずお疲れ様。今日もいい感じだったぞ」
 低い天井を仰いで息を出し入れする翠の下に駆け寄って、タオルとスポーツドリンクを渡す。
「はあ、はあ。ありがとうございます…」
 客観的に見れば、ただ立って歌っているだけの練習だが、本人に関わる心身内部の処理や雰囲気による精神的なプレッシャーに、流石の翠も疲労を隠せないようだった。

「何度も繰り返されるのはそこが重要な証だ。覚えて、できるようになろう」
「ふぁ」
 俺がタオルで顔を拭く翠の頭に乱暴に手を置くと、翠は変ではあるが可愛らしい声を上げた。

 ……最近では、こうして翠の頭に手を置くことも珍しくなくなっていた。

 無論翠が嫌がっているのに無理やり、という訳ではない。
 それどころか、撫でるたびににこやかな表情を見せてくれるのだ。


 実を言うと、もはや翠の髪に振れることに抵抗感は全く無くなっていたのである。





349: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/12(水) 21:43:46.50 ID:kE10GcaOo




「相変わらず仲が良いな。少し羨ましいよ」
 良い事か悪いことか。
 それがこの先どういった事態を呼ぶのか。

 全く不透明な未来に目を背けていると、壁際で休憩していた麗さんが俺達の所へ来て声を掛けてきた。

「…麗さんも撫でましょうか?」
「要るか、馬鹿者」
 先ほどの言葉を察した俺が恐る恐る提案をすると、軽く頭を叩かれてしまった。
 しかし麗さんの身長は女性の平均より高いとはいえ俺よりかは低いので、少し手を振り上げて無理して叩く形になるのが、何とも冗談めかした雰囲気を醸し出していた。

「それよりだ、翠。これが頼まれてた物だ」
 はあ、と嘆息してから、麗さんは翠にペットボトルを手渡す。
 それは、先程から彼女が手に持っていた何やら黄色い液体が入ったラベルのないペットボトルであった。

「ありがとうございます。あ、こんな色…少し薄いんですね」
 会話がスムースに言っていることに俺は疑問を抱く。

 彼女達の反応を見るに、さも前々から何度も話していたかのようではないか。

 そうした俺の言葉は、翠の言う答えとして返ってきた。





350: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/12(水) 21:44:53.95 ID:kE10GcaOo



「実は健康管理の面でもお世話になってまして、良いドリンクの自作法を教えてもらってたんです」

 薄い黄色の液体の入ったペットボトルは、翠と麗さん、それぞれ一本づつ携えている。話から、どちらも麗さんが作ったということだが…。

「ああ、実は私なりにレッスンに役立つドリンクを研究していてな……ちょうどいい、プロデューサー殿も一度飲んでみるといい」
「え? いいんですか?」

 思わぬ提案とともに、麗さんは俺にもう一つのペットボトルを手渡した。

 そもそも、彼女が指導の傍ら自分でドリンクを作ることもしている事が初耳だった。
 これも指導に対する思いのなせる技なのだろうか。

「では少し……ん? 思ったより甘いですね」
 キャップを開けて少し口に含むと、途端にほのかな甘味が口腔を撫で回す。
 そして喉を通れば喉に何かがまとわりつくような感覚がした。

 例えるなら、ウーロン茶の逆の感覚だ。
 ミルク系の独特な感覚がしたが、決して嫌になるタイプの飲み物ではない。

「基本的なレシピは変えていないが、人の好みで…今回は翠用に分量を変えているからな。そうだろう、翠?」
「あはは…恥ずかしいです」

 パフェを人並みに好んで食べる翠の好みを理解しての調合らしい。
 それでいて本来の目的である休息な栄養吸収を妨げることなくしているのだから、相当やりこんできたのだろう。





351: >>350最後の行「休息」→「急速」 2013/06/12(水) 21:46:07.22 ID:kE10GcaOo




「全く、それにしてもキミが最初持ってきたドリンクを見てびっくりしたよ」
「や……!?」

 やれやれ、と言った風に手をひらひらとさせる麗さんを見て、翠が急に慌てる。

「それって……まさか」
 最初に、という言葉が、俺の記憶を意識に隆起させた。


 そう、年月で言えばおよそ半年前。

 俺のためにわざわざ自分の飲み物を分けてくれたにもかからわず、吹き出してしまうような酸味の効いたあの飲み物だ。

 彼女は弓道の部活のためにあれを自作していたと聞いたが、まさか今でも続けているとは思いもしなかった。

「…私も、ちゃんとした物が作りたいと思ったんです。それで」
「真面目だなあ」
 そう言って、再度翠の頭に手を置いた。

「翠もそれだけやる気を持って今回のレッスンに臨んでくれているということだ、私としては歓迎だよ」
 くす、と笑みを浮かべて、俺が持っていたペットボトルを返してもらう形に持っていく。

 既に休憩といえる時間はゆったりと流れ切っている。

 麗さんも本日最後の一仕事をやるつもりだろう、壁際に荷物を置きに行く。





352: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/12(水) 21:46:50.69 ID:kE10GcaOo



「よし、最後まで気を抜かないようにな。頑張れ」
「わかりました、Pさん」
 もらったペットボトルのドリンクの水面を少し下げると、キャップを閉じて翠も荷物を戻しに行った。

 今日一日全体で言えば、終わりまでの時間など些細にしか感じないが、この時できているかどうかが今日のレッスンの総括となる。

 出来なければ、また明日同じ事をする。
 それで、本来するべきスケジュールがどんどんズレていく。

 予定調和などありえない話だというのは重々理解はしているが、大きすぎるズレは最終的な結果にまで影響するのだ。

 だから、決して立ち止まっては行けない。

 少なくとも……フェスの終わりまでは。


 再び最初から流れる新曲に合わせて歌う翠の声に耳を傾けながら、成功する未来を夢想する俺だった。






353: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/12(水) 21:48:56.82 ID:kE10GcaOo



  *



「本日のゲストはおなじみ水本ゆかりと、そのお友達の水野翠さんですー!」
今まで行ってきた中でも最も大きなスタジオで、二人は拍手とカメラに包まれた。

 家を意識したセットの中に設けられたソファには、翠とゆかり、そして進行役の男性と二人コンビの芸人がそれぞれ座っている。


 翠も最近では、ゆかりのお友達として全国テレビに出る機会も僅かではあるが増え始めていた。
 性格や雰囲気が似ているためか、巷でも二人セットで扱われる機会が増えて、その度にゆかりのプロデューサーから苦笑交じりの嫌味を言われることも多くなった。

 アイツの食い扶持が減るだろ、とは口癖らしい。



 きっかけといえば、プライベートでの写真だろうか。


 俺も翠に教えられるまで気付かなかったのだが、ゆかりは事務所の命でブログを開設していたらしく、時折ゆかりの私生活やお気に入りの服や音楽について写真を添付して投稿していた。
 その中で、去年とは違ってある時から翠と一緒に写っている写真がぽつぽつで出始めているのだった。


 そういえば、という言葉が入る。

 学園祭の前後の頃、翠に携帯で撮影した彼女達のツーショットを見せてもらった事がある。
 その時の表情を見て、私的な友好関係を持ってくれているのだな、としか思わず、特筆すべきこともなく流してしまったのである。

 こういったブログでの公表に対して自由にやって良い訳ではなく、恐らくではあるが投稿の際には監視役…この場合、ゆかりのプロデューサーがチェックするのが当たり前だ。

 その上で画像が公表されているということは、すなわち彼も二人組として扱うのがゆかりにとっても良いという、相互利益関係が成立していると考えていい。


 現に、こうして二人でテレビに出演し、出会いのきっかけや趣味の話でスタジオを盛り上げていけているのだから、その考えは至極正しいのである。





354: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/12(水) 21:49:48.06 ID:kE10GcaOo



「この前も忘れ物をして家に戻ったとき、何を忘れたのか忘れたこともあって……」
「どこまで忘れるんだよ!」
 スタジオの入り口付近、カメラの後ろで静かに俺は二人を眺める。

 ある程度決められた台本を渡されているとはいえ、翠の行動はやけにボケに冴えていた。

 芸人の指摘に観客も声と笑みを漏らす。
 この部分は台本で指定されているのではなく、トーク部分として時間だけ割り振られた部分だ。

「あのーお聞きしたいんですが、翠さんはいつもこんな感じなんか?」
「いつも…割とだよね?」
「違いますよ! たまたまです!」
 追い打ちを掛けるようにゆかりも翠にツッコミを入れると、手を振って翠は弁明する。

 本人たちはわざとやっているのかどうか分からない程に自然な口調で事実確認をしあっている。
「いやだって、前に私の家に来た時も私の服を着て帰ったことありましたよね」
「どういうこと!?」

 その会話も咬み合わっておらず、ズレっぷりが一層笑いを呼んでいた。


 ……というかその話は俺も初耳なのだが、本当に何があったのだろうか。




355: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/12(水) 21:50:51.26 ID:kE10GcaOo



  *



「その話は恥ずかしいから止めて下さいよ、ゆかりさん…」
「ウケてたじゃないか。流石だな」
 ゆかりのプロデューサーは遠慮なく翠に言うと、うう、と羞恥心を漏らしていた。



 収録終了後。
 出演者やスタッフの方々に挨拶をして用意されている楽屋に戻ると、疲れ果てたかのように息を吐いて翠は椅子に座った。

 いつものきりっとした姿勢はどこへやら。心底恥ずかしいといった表情でため息をついていた。

「…あれ、本当なのか?」
 放送中で全て語られた事なのだが、どうやら翠がゆかりの家に遊びに行った時、二人で服の着せあいっこをしていたらしい。

 何でもスリーサイズがほぼ相違ないからだそうだ。
 身長こそおよそ10センチも違うのだが、着る服も似通った趣味をしていることから、そういう流れになってしまったらしい。

「…本当です。ゆかりさんって、スタイルいいですよね」
「翠ちゃんだって、身長が高くて羨ましいです」
 まあ三歳違いでスリーサイズがほぼ同じとあれば、そう言ってしまうのも無理はない。

 お互い褒め合う二人だが、どちらも気にする部分というものがあるのだろう。


 その会話を眺めていると、ゆかりのプロデューサーはぱん、ぱんと手を二回叩く。





356: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/12(水) 21:51:24.83 ID:kE10GcaOo




「ゆかり。そろそろ時間だ。次の仕事に行くぞ」
 私的な会話から仕事の会話へと移り変わったのがはっきりとわかった声色だ。

 彼女もそれを聞いて理解し、落ち着いて「はい」と一言返事をして荷物をまとめ始めた。

「お疲れ様です。またどこかで」
「おう、またな」
 彼のプロデューススタイルについてこちらが文句をいう筋合いはない。
 むしろそれで上手く言っているのだし、ゆかりも不満を抱いていないのだから、それはお門違いだろう。


「……できました。じゃあ翠ちゃん、また会いましょう」
「はい!」

 去り際、ゆかりはこちらを振り向いて礼をすると、翠も丁寧にお辞儀をした。


 友達とまで行っても、こういった様式というのはいつまでも変わらないようだった。





357: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/12(水) 21:52:10.30 ID:kE10GcaOo



  *



「飲み物、何がいい?」
「あ、ではお茶をお願いします」

 自販機からお茶とコーヒーを取り出すと、片方を翠に渡し、歩き出す。



 ――外。

 日差しはまだ心持ち温かいが、しっとりとした空気と撫でるような冷風が俺達を抜かしていく。

 そんな中を二人で歩いていた。


 今日はちひろさんが車を使っているため、電車で事務所まで戻ることになっているのである。
 悪いな、というと、歩くのは嫌いじゃないですから、と翠は笑顔で答えてくれた。


 燦々と輝くような笑顔ではないが、落ち着くような、素朴な笑顔はそれと違ってまた可愛げがある。

 コーヒーを持ってない手で頭を二、三度叩いてやると、こちらをみてまた笑みを浮かべてくれたのだった。





358: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/12(水) 21:52:41.79 ID:kE10GcaOo




「…寒くなってきたな」

 今日の分の仕事は終わったが、時間で言えばまだ昼過ぎという頃合いである。

 ゆかり達のように、一日に何度も仕事場を回るような忙しい日々にはまだまだ遠そうだった。

 しかし仕事とは別に、今彼女にはフェスに向けたレッスンという大事な用事がある。
 当然昨日も夜までレッスンをしていた。

「そうですね」

 通常の感覚で言えばそこまでして後何を練習することがあるのだ、と思ってしまうが、柔軟やメンタルトレーニング、当日の流れについての復習など、内容が尽きることはない。


 …とはいっても、体力というものは無限に限りなく近いようで、無限ではない。
 仕事があるから、という名目で、今日はレッスンがお休みなのである。


 まだまだ冬というには暖かすぎる。

 しかし、彼女のつけた手袋が、冬の気配を色濃く描き出していた。





359: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/12(水) 21:53:27.10 ID:kE10GcaOo




「途中寄りたい所とかはないか?」
 人がまばらな平日昼の駅。

 椅子に腰掛けた俺と翠はしばらく景色を見ていたが、俺は不意に声をかける。

「…特にはないですね」

 寸分考えてから、翠はそう言った。


 レッスン漬けの毎日と一生懸命こなす仕事。

 営業という仕事もパフォーマンスという仕事も、どちらも辛いことには変わりない。
 だが、精神的な負担はきっと彼女のほうが多くのしかかっていることだろう。


 せっかくの午後の休みを得られたのだから、もしかしたらどこかに行きたいと言うかもしれない、そう思って訊いたのだが、存外そうでもなかったらしい。

 まあ、彼女なりにそういう所も自己管理が出来ているということなのだろう。
 未だレッスンは熾烈を極めているが、それでも順調に進んでいるのなら、こちらから働きかけることはない。


 やがて視界の横で電車が遠くから大きくなっているのを見つけると、立ち上がってその時を待った。





360: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/12(水) 21:54:21.56 ID:kE10GcaOo



  *


 ――Pさんの家って、どんな所なんですか?


 がたん、ごとんと揺れる車内。
 小気味よいリズムに乗せて、隣に座る翠は訊ねた。


 俺の家はちひろさんの実家のように一軒家ではなく、オンボロなアパートに一人暮らしだった。
 どこでどう暮らしてどう仕事すればいいのか理解らなかった入社前、社長に斡旋してもらって決めた部屋である。

 エアコンはついていないし壁も薄い。
 床は軋むし少し臭う。日当たりも悪い。
 この冬もきっと辛い日々が待っているだろう。

 そんな悪条件でも駅からは近く、家賃も安い。たったそれだけで決めた部屋だが、後悔はしていない。

 自立して暮らす初めの頃は、大体こんな感じなのだろうという予想はしていたし、意外にも住めば都という言葉がぽんと出てくるのだ。

「…まあ、ろくでもない所だよ」

 笑って答えると、彼女の表情が少し変わる。

「いつも仕事で大変なのに、そんな場所では休めないのでは?」
「そんな場所でも城は城なんだよな、意外に」

 翠の実家に入ったことのある身としては、落差には涙を禁じ得ない。
 しかし、男の一人暮らしなんてものはこれが当たり前なのだ。





361: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/12(水) 21:55:19.70 ID:kE10GcaOo




「Pさん、確かお昼はいつもコンビニでしたよね」
「…よく見てるな」

 翠の質問は続く。

 家に帰る時間や睡眠時間、そして毎日の食事についてなど、俺の不摂生を明るみに出したいが如く、痛いところを突いてくる。


 そう言われて初めて、俺って結構後先考えない生活してるよな、としみじみ感じた。

 彼女のプロデュースが原因、とは言わない。
 ただ、翠の事を一日中考えているので他のことが手に付かないだけだ。


「…そうですか」
 不意に質問が止む。彼女の声に傾けていた耳の中が、車内の雑音で独占される。

 もう俺の家の話題は飽きたのかと翠の横顔を見てみると、俯いて深く考えているようだった。

 真面目な彼女の事だ、もしかしたら健康的な生活のためのプランでも考えているのかもしれない。
 確かに翠と出会ったきっかけからして、困った人を放っておくとは思えない。

 彼女を彼女立たせている大きな要素は、素直と献身なのだ。


 さて翠は懸命に考えて何を言ってくるのだろう、と予想を脳内に蔓延らせて若干楽しみに待っていると、とうとう本人の口が開いた。


「寄りたい所が決まりました。――Pさんの家に、行きたいです」
「……へ?」

 この子は一体何度突拍子もない発言をすれば気が済むのだろう。


 ゆらゆらと揺れ、流れる景色の中、その言葉を噛み砕くのには結構な時間を要した俺だった。





362: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/12(水) 21:55:55.83 ID:kE10GcaOo



「…えーと、どういう意味?」
 Do you meanと聞こえようがなんだろうが、大体の意味は同じである。

「私のために時間を割いてくれるのは嬉しいです…けど、Pさんがそれでは私も心配です。今日だけでも行かせて下さい。…Pさんの役に立ちたいんです」

 おおよその意味は俺に通じていたようだった。

 尤も、そうであって欲しくなかったという気持ちは十分にあるのだが。

「…ありがたいけどな、それは無理だろう。翠ももうそこそこ名前も売れてきたんだからさ」
 プロデューサー、しかも男性の家にアイドルを連れ込むなど言語道断である。

 並み居る有名アイドルに比べればまだまだとはいえ、翠も今や全国テレビにも顔が写るまでになった。

 それを知っていてなお行きたがる神経が、俺には全く理解できなかった。


「…じゃあ約束して下さい。健康的な生活を送ると」
「うっ」
 半目で問い詰めるように翠は俺を睨んだ。

「……や、約束する」
「嘘です」

 元々歳以上に凛々しく見える容姿が今はもっと大人びて…いや、厳かに見える。
 それは久しぶりに帰省した実家で母親に生活を指摘されているような感覚に陥らせた。






363: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/12(水) 21:56:27.50 ID:kE10GcaOo



「私の事が心配だというのなら、Pさんも心配かけないような生活を送って下さい。それができないなら――」
「ちょ、静かに……。静かに、な?」
 長丁場になりそうな口上を慌てて制止する。

 いくら電車の中に人が多くないといっても、居ることには違いないのだ。

 見た感じでは、残念ながら翠が座っているということに気づいている様子はない。
 しかし、そんなレッドラインを滑水するような会話はどう考えても不味い。


 ……普通に断ればいい。

 その場しのぎで騙してこのままの生活を続けたところで、どうせバレるはずもないのだから。


「……Pさん」
 だが。

 彼女の視線は強情を通り越して脅迫にとられかねない程の強さを持っていた。

 何やら、例え嘘をついてこの場を抜けだしたとしても、こまめにチェックしだしそうな雰囲気すら感じる。

「…わかったよ」
 そこまで俺の事を心配してくれているのか、と嬉しくなる一方、自覚のなさに若干の焦りを覚える時間となった。


「ふふ、ありがとうございます」
 まるで狡猾に見える彼女の笑みを他所に、俺は一つ嘆息する。
 とりあえず、ちひろさんにだけはバレないようにしないといけない。


 ……まあ、初めから俺がまともな生活を送ればいい話なんだけども。





364: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/12(水) 21:57:59.98 ID:kE10GcaOo



  *



「ここが俺の家だ。まあ入ってくれ」
「わあ…ここがですか」

 駅から徒歩5分ぐらいか、静かな住宅街の中に俺の根城はあった。


 ガチャリとややぎこちない音を立てて玄関の扉を開けると、先に翠を入れてやる。

 念の為に駅を降りてから誰かにつけられてないかそれとなく確認してみたが、俺達以外に降りた人は居なかったので悲喜こもごもの感情を抱きつつ、俺も家に入り、扉を締める。

 翠は事前に渡して着用させていたマスクを外すと、丁寧に畳んで彼女の鞄の中に入れた。
 無論念には念を入れての変装のためだ。


 こうなることを予測して準備しておいたのではない。

 ただ、もうすぐ冬も近く、風邪菌を体の中に入れないようにと思って忍ばせていただけのことだった。

 まあ結果的に心理的安寧の役には立ったので良しとしようか。

「…思ったより綺麗ですね」
「翠は俺のことをどんな人だと思ってるんだ…」

 期待はずれというか、拍子抜けというか。
 そんな気の抜けた声で感想を言われてもいまいち喜べない。





365: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/12(水) 21:59:44.95 ID:kE10GcaOo



 自分の部屋に返ってきたのにいつまでもスーツ姿は息苦しい。

 とりあえずスーツを脱ぎネクタイを解く。そしてそのままハンガーに掛けようとすると、翠がそれを奪いとってしまった。
「これぐらいさせて下さい。掛けますね」
「…あ、ああ」

 壁の木枠に吊るしてあったハンガーにスーツとネクタイを掛け、シワの着いた部分を軽く撫でるようにはたいた。

 今翠は私服姿だから冷静でいられるが、もし格好があの学校の制服であったとしたらいささか犯罪臭がしないでもない。

 そう考えるとこの状況が如何に不味いかがよくわかろう。


「晩御飯までは時間がありますね…部屋もそこまで汚れていないようですし」
「汚すほど部屋に居る時間が長い訳じゃないからなあ」

 俺の部屋には残念ながら客をもてなすような設備は全くと言っていい程存在しない。

 唯一のクッションである綿の潰れたベッドに翠を座らせて、俺はベッドを背もたれにするようにして下に座る。

「あ……すみません、Pさん」
 座る高さが違うせいか、珍しく俺が翠に見下される形になったのを感じ取ったようで、彼女も俺の隣、ベッドから降りてさっと座った。

 どちらかといえばベッドに二人並んで座ることが何となく気が進まなかったからである。

 なので気にすることはないんだぞと言ってやると、翠は目線を自分の膝に落として呟いた。

「…見上げている方が、私、好きですから」

 変わった人だ、とつくづく思う。





366: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/12(水) 22:00:40.32 ID:kE10GcaOo



 昼下がりの午後。

 この付近は騒ぐような人間は居らず、うるさいといえば時折通る車の音や早朝の鳥達の音ぐらいである。
 ましてや人の声で喧騒が生まれることなど、俺の知る限りでは全くない。


 そんな壁掛け時計すらない簡素な部屋の中に、俺達は同じ方向を向いて座っていた。
 目の前には小さなテレビとテーブル、そしてパソコンがあるだけだ。


 よくよく考えてみると、まるで不思議な雰囲気である。

 そこまで広くはないが年齢差のある俺達が、はしゃぐ訳でもなければ大笑いして話す訳でもなく、こうしてじっと静かに過ごすという空気が想像以上に異質で、それでいて新鮮だった。


 ちらりと翠を見ると、それに気づいたらしい翠も俺を横目で見て笑う。
「…そんなに私がここにいるのがおかしいですか?」
 冗談めかした声色だ。

「そりゃあ…今まで誰かを中に入れたことすらなかったからなあ」
「本当ですか?」
「嘘つく意味はないさ」
 天井を仰ぐ。
 やや痩けた色をした合板がこの部屋を包んでいた。


 実際、入居してから今までの間にこの部屋に誰かを招いたことは一度もない。
 それどころか俺自身ですら、合計の時間で言えば外にいる時間のほうが多いぐらいだ。

 そんな寝るだけの部屋に俺以外の人間…それも担当するアイドルがいることに、とても非日常感を覚える。

 言い換えれば、ある日しがない人間である俺の下にテレビで見る可愛いアイドルが突然やって来たというような物だ。

 漫画であれば使い古された設定だろうが、まさかそれが現実に存在するとは誰も思うまい。





367: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/12(水) 22:01:47.74 ID:kE10GcaOo




 静寂は徐々に霧散していく。

 ぽつり、ぽつりと普段のこと、最近のことを呟いて会話をした。

 学園祭のライブ後の時よりも、もっと深い、彼女の奥の奥。
 飾りのついた華々しいばかりではなく、素朴で、退屈で、取り留めもない人生の紹介だ。

 楽しませようというつもりはなく、ただ話し合う。

 それがビジネスパーソンとしての間柄でなければ友達という間柄でもない、ある種、家族のような近しさを覚えた。



 今思えば、翠とだけに静かに会話をするのは久しぶりのような気がする。

 最近の翠のスケジュールは多忙を極めていて、活動時間の殆どがレッスンで埋め尽くされている。
 その合間にも仕事が入っており、こうして二人で話をする時間というのは、いつのまにか貴重なものになっていた。

 それだけ合同フェスという存在が巨大なのだということが言えるのだが、気付かぬ内に話の内容が事務的なものに偏っていたことに今更ながら反省する。

「最近はゆっくりする時間を与えてやれなくてごめんな」
「……大丈夫です。今が大事なのは私も判ってますから」

 彼女は高校生だ。
 しかし、今は社会人だ。

 立場の変化に適応し遅れることのないように、と思ったが故になってしまった事態なのだ。
 せっかくだから今日ぐらいはゆっくり過ごしてもらおう。


 それが俺の家でなければな、という指摘は心の奥底で振り払っておいた。






368: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/12(水) 22:04:29.66 ID:kE10GcaOo




「…ごめんなさい、Pさん」
「急にどうした?」

 肌寒い室内も、二人で過ごしていると心なしか暖かいように感じるまで進んだ時。

 ほんの少しだけ開いた間。前後をつなげるように、翠は言った。

「急に行きたいと言って、迷惑を掛けて」
 三角座りをして真正面をぼんやりと見ていた翠が、突如謝罪した。

「確かに驚きはしたけど…別にいいよ。心配かける生活してる俺が悪い」
 結局来てもらったところで何らかの指導が入る訳でもなく、家に来てからはただお茶を手元に話をしていただけだった。

 不安ではあったが俺達に害なす人影もなかったし、仕事というレッテルを剥がして話し合う時を俺も楽しんだのだから、翠が謝る必要はどこにもない。

 そう言うと、翠は黙りこくって俯いた。





369: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/12(水) 22:04:58.81 ID:kE10GcaOo




 ふと彼女の横顔に注視する。

 先程まではこちらを見たり、窓を見たり、笑ったりするなど起伏に富んでいたが、今の彼女はどこか遠い目をしている。

 楽しそうとも退屈そうとも取れない、しかし通常の表情、という訳でもない。

 おおよそノスタルジックな雰囲気にあてられて感傷的になっているかのような……謝罪する時とも違う申し訳なさがあった。


 長く感じたようで実のところ一分も経たず。

 翠は少しづつ、思いを吐露し始めた。





370: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/12(水) 22:05:35.66 ID:kE10GcaOo




「私が今日無理言ってPさんの家に行ったのは……ちょっとした、羨望なんです」
「せんぼう…羨ましい?」

 翠は最初に、そう語った。

 口語で羨望なんて言葉を使う人間がこの世界にどれほどいるのか。
 若干の理解タイムを経てようやく理解した俺が聞き返すと、はい、と彼女は小さく頷いた。

「……少し前、ゆかりさんの家に遊びに行ったらしいですね、Pさん」
「…どうしてそれを」

 出処からしてゆかりが翠にそう言ったのだと思うが、静かにそう指摘する彼女の落ち着き様に、僅かながら恐ろしく思えてくる。

 担当プロデューサーが別の…それも他所の事務所のアイドルの部屋に上がりこんでいたという事実に怒りを露わにしているのか、それとも失望しているのか。

 一瞬であらゆるシミュレート結果が出てくるが、彼女の言葉がそれを否定している。



 羨望、と。





371: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/12(水) 22:06:16.97 ID:kE10GcaOo




「ゆかりさんの家に行ったのは、合同フェスに関する事で、なんらおかしなことではないというのは重々承知しています。ゆかりさんもPさんも……信頼していますから」

 もしも彼女の言ったその二文字が本心であるとするならば。

「ですが……仕事場以外で二人が会っていた事を聞いた時、胸が……寒くなったんです」


 どれほど抑圧された束縛の中で生きてきたのだろう。
 翠という人間は、齢十八にしてどのような環境で育ってきたのか。

 恐らく今の彼女の性格が形成されるに至った大きな要因は、弓道にあるはずだ。


 彼女にとって弓道とは、自己鍛錬という概念を学んだきっかけだった。

 その結果、翠は己で自身を高める術を手に入れた。
 自己管理や自己実現という手段を経て、努力へと昇華したのだ。

 それが彼女の持つ才能。
 ひたむきに努力し、真っ直ぐに学び、無我夢中に取り組む。
 そんな素質が、彼女を今という状況に結びつけてくれたのだった。


 しかしその一方で、それらは彼女を縛る見えない紐にもなっていたのだ。





372: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/12(水) 22:07:22.22 ID:kE10GcaOo




「何故なんでしょう。今日だって、すぐ帰って自主練習をしなければいけないはずだとわかっていたのに…」


 自己犠牲、邁進。
 字面だけで見れば美徳で素晴らしく、潔白な人間に与えられる称号である。


 だが、彼女がそれを持つにはあまりにも早すぎた。

 設定された目標のために自分を高めていく。
 その過程で、進行に邪魔となる感情を抑えつけてきたことで、本来であれば誰しもが感じたり覚えたりする感情や感覚が身につかないという弊害が出てしまっていたのかもしれない。

 有り体に言えば、無垢なまま育ってしまったのだ。

 彼女の生きてきた時間からすれば俺の見てきた翠の姿はたった一年にも満たず、それ故に考えたことを口にすることは憚られる。

 わかった気になる、ということは一番やってはいけないことだからだ。


「プライベートの時間を、たった二人で過ごしていたということが……とっても、羨ましかったんです」

 ……それでも、俺の口は開く。





373: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/12(水) 22:07:48.56 ID:kE10GcaOo



「…ごめんな。忙しくて」
「それは大丈夫ですから――」

 翠の言葉を遮って、続ける。

「そうじゃないんだ。高校生の大事な時期にアイドルにスカウトして、それでデビューからお茶の間に受け入れてもらえるまで時間がないように思えて。…俺は急いでいたんだと思う」

 結局は俺の都合。もとい、事務所の都合だ。

 誰ひとり所属していない事務所に、芸能界について何も知らない少女が所属し、何も知らないプロデューサーによって導かれていたというおかしさ。

 彼女が失敗すれば、俺どころかちひろさんや社長すら職を失ってしまうという焦燥感。


 それらが、彼女の成長を歪な向きに伸ばさせていたのである。





374: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/12(水) 22:08:20.20 ID:kE10GcaOo



 翠は何も言わず、ただ俺の言葉の続きを聞く。

「余裕が出てきた今だから言えることだけど、できるならもっとゆっくり下積みをして、ゆっくり話し合って。本当にお互いが信頼できるように、わかりあってからアイドル活動を始動すべきだったんだよ」

「Pさんの事はとても信頼しています!」
 俺達のしてきたことは間違っている、と受け取ったらしい翠は俺を見つめ、強く反論した。

 違う。間違ってはいない。
 だた、ベクトルの解釈に相違があったというだけなのだ。


 彼女は、俺を信頼せざるを得なかった。

 全く未知の世界である芸能界に入る事に対して、俺を信じなければ何もできなくなってしまうからである。

 そして翠の持つ極端な人間性が、その信頼に拍車をかけてしまったのだ。


 今までに何度彼女を見間違えたのだろうか。

 ターニング・ポイントは恐らく学園祭だ。





375: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/12(水) 22:09:04.47 ID:kE10GcaOo



 あの時翠は、俺を擬似的な相手として『恋心』を演出していた。

 まだ知らぬ感情に説明をつけるために、あんな事を言ったのだ。


 それは、客観的に見れば――冷静に判断すれば、異性への好意と解釈しても文句は言われない。

 到底不正解を言い渡せない程、翠の感情は愚直であった。



 しかし、問題は俺の行動だ。

 当時の俺は、そんな雰囲気を感じ取ったとしても、よもや現代の女子高生が自分のような人間に好意を抱くことなどあり得るはずがない、そう判断してしまったのである。

 故に、翠からの感情を年上への信頼と誤解して受け取ってしまった。


 そして、彼女にも同様のことが言える。

 きっと翠にとって、異性への好意という感情がまだ具体的にはっきりと形容できていないのだろう。
 今まで彼女と接してきて、そう思えるような出来事や言動は確かに記憶にある。

 何より翠自身が俺にそう伝えたのだから、歴然とした事実であるはずだ。

 …無論、その考えの根底には未だ『俺に異性として好意を抱くなんて変な話だ』という感覚があるからである。




376: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/12(水) 22:09:37.38 ID:kE10GcaOo



 つまりだ。


 信頼と異性への好意を混同してしまった彼女。

 異性への好意を信頼と誤解してしまった俺。


 何とも馬鹿げた――特筆することもない、三文芝居であった。





377: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/12(水) 22:11:13.42 ID:kE10GcaOo




 沈黙が設けられる。

 一台、車が通る音が、お互いの耳に入った。


 どうすればいいのだろう。

 どうすれば正しく導けるのだろう。


 それを熟考する猶予もなく、俺は再度口を開いて翠に問う。


「…翠はさ。俺のこと……好きか?」


 不条理な、問いかけだ。





378: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/12(水) 22:12:06.77 ID:kE10GcaOo



「……え?」
 当然である。

 ぱちくりと目を見開いて、俺を見る。

 気温を言い訳には出来ない。うっすらと赤面していくのが俺の目にも見えた。


 トチ狂ったか、と言われても仕方がない。
 そうせざるを得ないほど、俺は解決策に飢えていた。


 どう流れを作っていくにせよ、まずは翠自身の本意を知らなくてはいけない。
 そのための問いなのだ。


 対する翠はというと、あ、だのう、だの、言葉にならないただの文字を言うだけで、ただただ困惑していた。

 そう呟けば呟くほど、ますます彼女の感情が加速していくのがわかった。





379: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/12(水) 22:12:40.93 ID:kE10GcaOo





 ――そして、また少し経った時だ。


「好き、です」


 騒音のないこの世界の中で、か細い声が全身に響き渡った。







380: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/12(水) 22:13:25.16 ID:kE10GcaOo




 何と甘美な響きだろう。

 美人な女子高生、それもアイドルに好意をぶつけられることなど、人生で一つもあるとすら思いもしなかった。

 しかし、現実だ。
 客観的に見てどうであれ、確実に俺のことを好きだと言ってくれたのである。

「…俺のどこをそう思ったんだ?」

 意地悪な質問に、俯いたまま彼女は言葉を紡ぎだす。

「……私に、道を作ってくれましたから。最初は、まさか本当にアイドルになれるなんて思わなくて、不安な私の背中を押してくれて」

 結果論だが、翠が俺に弓を引く姿を見せた時からもう、始まっていたのかもしれない。

「Pさんと仕事を続けている内にいつの間にか、私の前を歩いてくれる度、私の手を引いてくれる度、ドキドキして…でも、どうしたらいいのかわからなくて……それで」

 そう言って翠は言葉を切った。





381: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/12(水) 22:14:07.49 ID:kE10GcaOo




 例えば、俺が学園祭で翠に対して行った『頭を撫でる』という行動が、『手を繋ぐ』だったとする。

 すると、それ以降彼女が俺に要求してきた行動も全て『手を繋ぐ』というものになっていたに違いない。

 翠の抱えている思惑というものは、一種のオウム返しに近い。
 質問に対しての回答が正解と信じて、それ以降はパターンとして当てはめる。


 素直すぎるが故の問題が、今噴出したのである。


 それを目の前にして取り得る行動は、あまりにも少ない。

 もしも俺がゆかりのプロデューサーのようにはっきりとしたボーダーを引いて接するような人間なら、論理的に説明して解決を図っただろう。


 だが、そんなことが俺に出来るかといえば、まず不可能だ。

 正誤はともかくとしても、彼女の思いを踏みにじる事になる選択肢は絶対に取りたくない。


 では俺はどんな行動を取ったか。


「よし。……じゃあまた今度、デートに行こう」

 ――蘇るあの時の記憶をなぞるように、俺は提案した。





382: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/12(水) 22:14:36.83 ID:kE10GcaOo




 顔を紅潮させたままの翠を他所に、話を進める。


「好きという感情は、悪いものじゃない」

 翠のそれに流されてしまえば、俺は即座にこの立場を降りなければならない。
 本能に従うのは、奈落の底に飛び込む時だ。


 しかし、好きという気持ちは人をより大きく成長させてくれる大事な感情である。

 そういう感情を守り育んでいく事が、人間として、アイドルとして一層活躍していくために必要なのだという考えは教育論からしても間違いではないはずだ。

「でも…学園祭の時でも翠が言ってたように、アイドルとしてそれは絶対にやってはいけない事なんだよ」

 アイドルとして、間違った道に誘導するような事だけはしてはいけない。

 それでいて、頭ごなしに否定することだけはしてはならない。


 だから。

「だから、大事にしていこう。……好きという気持ちも、一緒に居たいと願う気持ちも」

 床に置いていた翠の手の上に、そっと俺の手を重ねる。





383: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/12(水) 22:15:10.17 ID:kE10GcaOo




 一瞬体が震えて引っ込める力が加わったが、すぐさま力が解かれる。

 きっと彼女にとって、異性と手を繋ぐ事も、頭を撫でられた事も、こうして近くで見つめ合う事も初めてなのだろう。

 まるで異性との接触を禁じられた古いしきたりを律儀に守る、箱入り娘のような初々しさ。

 その感性を失わせることだけは、避けなければいけない。


「…約束です」
 俺の手の下にあった翠の手が裏返って掌が合わさると、彼女はそっと力を入れて手を握る。

「ああ、約束だ。この合同フェスが終わったら、オフを取って翠の好きな所に行こうじゃないか」
 忙しいのでは、という問いには、そんなもの知るもんか、と巫山戯て笑ってやる。


 赤らんだ頬から、最大級の笑みが零れた。






384: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/12(水) 22:15:40.44 ID:kE10GcaOo



 あえて言うが、問題は解決していない。

 真意を引き出したところで、それが本当にそうなのかという判断はまた別の問題だからだ。
 一口に好きといっても、友人に対する親情や恋人に対する愛情など多岐にわたる。
 とりわけ感情の主が翠ならば尚更である。


 今の本人の気持ちとしては…言うまでもない話だ。

 しかし、これが今後どういう展開を遂げるかは誰にも…俺にも、翠にもわからない。



 だから育てるつもりだ。

 はっきりと本人が区別できるようになるまでは、恐れずに、驕らずに……誤らずに。





385: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/12(水) 22:16:27.61 ID:kE10GcaOo



  *



「やっぱり、私はPさんの事が好きです」

 結局、お互い居た堪れなくなって晩御飯を食べること無く解散することになった。

 オフにも関わらず帰るのが遅くなるとちひろさんに怪しまれるからというのもあるが。



 そんな駅に向かう途中、やや暗くなり外灯が付き始める頃、翠ははっきりと俺を見て言った。

 まるで決意表明のような意気込みだ。
 あの時ぐちゃぐちゃに混乱した意識が、今になって落ち着いたからだろうか。

「はは、それって今言うことか?」
「わ、笑わないで下さいっ」
 茶化すと、もう、と頬をふくらませてしまった。





386: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/12(水) 22:17:05.03 ID:kE10GcaOo



「…いけないことだというのは今でも判ってます。でも言葉にすると、何だかすっきりしました」

 真っ直ぐに生きてきた彼女にとっては、恋だの愛だのといった感覚が今まで不明瞭で、それ故に自分でも何が何だかわからないという感覚だったのかもしれない。

 それがあの時間を経ることで、一つ知り、学び、そして経験し、人として大きくなれたのだろう。

 もしそうであるならば、俺の言葉も無駄じゃなかったと言える。
 まかり間違っても恋愛感覚がエスカレートしなかったことが、俺を最大限に安堵させる一因となった。


「……あ」

 嬉しそうに隣を歩く翠が突如歩みを止めて、何かに気付く。

「どうかしたか?」
 立ち止まる意味が皆目見当もつかなかったので素直に訊ねてみるが、さっきとはうってかわって何やら言い淀んだ表情であった。



 一秒、二秒。いや十秒かもしれない。

 少しの間を開けて、彼女は言った。


「そういえば、返事を聞いてませんでした」

 あ、と漏らす声は俺から出たものだった。





387: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/12(水) 22:17:50.33 ID:kE10GcaOo



「へ…返事?」
「そうですよ。Pさんが『好きか?』って訊いてきたから答えたのに、Pさんの気持ちをまだ聞いてません!」

 回想する。

「……そういえばそんな感じだったかもしれないな」

 あさっての方向を向いて頬を掻くと、翠は近づいて俺の手を取った。
 手袋越しの、少し冷たい手だ。

「せっかくですから聞かせて下さい、Pさんの気持ち。……私のこと、好きですか?」
 手をとるために近づいた顔が俺を見上げる。

「……っ」

 どうしてこう可愛げのある仕草をするのだろう。
 アイドルだからか、はたまた天性のものか。

 視線、顔の動き、服装、状況。
 どれをとっても申し分ない、心を高ぶらせるには文句ない環境だった。
 俺が教えた訳じゃないのにごく自然にやってのける様は、さながら誰かから教授してもらったかのような――。


 ……まさかゆかりじゃないよな?





388: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/12(水) 22:18:43.61 ID:kE10GcaOo




「…好きじゃなかったら、あの時スカウトしてなかったよ。今でもその気持ちは変わってない」

 優勢だった関係がいつの間にか防戦になっていた。

 翠は俺の言葉を引き出すと、ふふ、と笑って手を離す。

「よかった。じゃあデートも最高の物になりますね!」

 狙っていたかのような仕草や言動に、ますます演技の才を感じざるを得なかった。
 先程まで赤面していた癖に何だか手玉に取られたかのように思えて、俺もささやかに反撃することにする。

「わわっ、やめ、ちょっとPさん!」
「大人をからかった罰だっ」

 自由になった手を翠の頭に乗せて、少し乱暴に髪をかき混ぜでやったのだ。

 ひとしきり髪を暴れさせてから手を放すと、苦笑しながら髪を押さえて直す翠の姿が見えた。

「…ふふっ」
「何だよいきなり」

 秋の夕日はどうも人を恋しくさせてしまうらしいが、その色を背景にして無邪気に笑ってみせる彼女の表情は……夕焼けの中でも暖かく映ったのだった。




397: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/24(月) 20:06:14.77 ID:LQWSwYS+o


  *



「本当ですか!?」
 俺のひときわ大きくなった声は、電話先の相手に伝わる。

「はい…はい。わかりました。その時刻には必ずお待ちしております。ありがとうございます、よろしくお願いします」

 無機質な切断音を耳から遠ざけてボタンを押す。


「なんとか間に合いましたね」
 その会話を断片的に聞いただけで隣にいるちひろさんも内容を理解したのだろう、苦笑混じりに言った。

「ええ、試作品からあまり変更が要らなかったみたいですし…ちひろさんのおかげですね」
「どういたしましてっ」
 一応俺の方からもある程度の提案はしたが、ちひろさんのセンスが光るデザインが、大体のまま業者へと通ることとなった。


 明日には届く。

 ……これを見せたら、翠はどんな顔をするだろうな。





398: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/24(月) 20:06:58.65 ID:LQWSwYS+o



  *



 ――天気はやや曇り。

 合同フェスまで一ヶ月を切りそうな11月の終わり頃、俺と翠、そして麗さんと共に小さな録音スタジオへと足を運んでいた。


 当然することといえば、レコーディングである。


 麗さんと行う何日にも及んだ練習の末、翠はようやくそのレベルにまで到達したというお墨付きをもらったのだ。

 本来なら俺と翠だけで行く所を、せっかくだからということで麗さんにもアドバイザーとして付き添ってもらえることになった。

「まあ本音を言えばもっと練習させてやりたかったけど。それでもそれなりのレベルにはなっているはずだ、自信を持つといい」
 実際、曲を習い始めてから一ヶ月も満たない期間でのレコーディングは他所から馬鹿にされても仕方がない程だ。

 それほどにスケジュールは相変わらず切迫していて、まだ予断は許されない。

「全力で、な?」
「…もちろんです」

 彼女の顔は、以前よりも根拠のある自信に満ちているようだった。

 きっと麗さんの言葉がそれに繋がっているのだろう。





399: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/24(月) 20:08:43.93 ID:LQWSwYS+o




「皆さん本日はよろしくお願いします」
 録音スタジオには、エンジニアの人と今回のCD制作に携わるレコード会社の担当者数人が居た。

 三人揃って礼をすると、あちらこちらから、よろしくお願いします、という言葉が届いた。
「よろしく…と、この方は?」
 その中の一人の壮年の男性、音楽プロデューサーは手を差し出して訊ねる。

「ああ、申し遅れました。そちらの方に事前に連絡をさせて頂きましたが、翠のサポートのために共に参ることになりました、青木です」
「初めまして、青木麗と申します。…いや、そうでもないか」

 単独で自己紹介をすると思いきや、突然砕けた口調で音楽プロデューサーにそう言った。
 年齢差にして二十はありそうな年上の相手にしては少々推奨できない。


 どういうつもりですか、と窘めようとしたその時。


「青木麗……というと、ああ、思い出したよ、君か」

 顎をさすりながら、彼はすっきりした風に返事をしたのだ。






400: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/24(月) 20:09:12.85 ID:LQWSwYS+o



 恐らく長年この業界で仕事をしてきたのだろう、随分熟練した雰囲気を持つ彼は、驚いたように話を続ける。

「いやいや、名前を聞いてびっくりした。まさかこんな新人に付いてるとは」

 失礼な物言いだが、言い返すことはできないし、してはいけない。
 取引先で更に目上の人なのだから、と気持ちを抑える。

「ちょっとした気まぐれだよ。今回もよろしく」
「おおそうだな。頑張ろうじゃないか、はっはっは」

 身長はやや小柄だが、少し太った体が彼を豪快に見せた。
 随分とざっくばらんな性格に見えるが、CD交渉をした時はもっと厳かな人だったのだから、人というのもなかなか難しいものだ。


「一生懸命頑張りますので、どうぞよろしくお願いします」

 翠も改めて皆に挨拶をしたところで、早速レコーディングが始めることにした。




401: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/24(月) 20:09:40.85 ID:LQWSwYS+o


  *


「止めて…一旦止めてくれ。翠、そこは違うぞ。わかってるか?」
 麗さんのスパルタは場所が違っても相変わらず炸裂していた。


 確かに、録音するために歌うというのは独特な雰囲気を持っていて、未経験であった翠にとってはそれが全力を阻害する原因となっている。

 またこうして全員から近くで見られる中歌うというのもやり辛くしているのだろう。

 俺にも、翠が細かい所だが音が外したりうわずったりしていることがわかる。
 何度も何度も、練習で歌う姿と声を聞いているからだ。


 こんな場所にまで言われるなんて、俺が翠の立場であれば悔しいやらもどかしいやらで大変だっただろうが、翠は恥も外聞もなく麗さんの言葉に耳を傾けていた。




402: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/24(月) 20:10:19.56 ID:LQWSwYS+o




「はっはぁ、やっぱり変わってないな」
 ソファの隣に座って彼女達の会話を眺めていた音楽プロデューサーは楽しそうに呟いた。

 彼の先ほどの会話から察するに、過去にも何度か…それも、一般的に頻繁といえる程に共に仕事をしてきているようだ。

 対外の相手に対しては礼節をもって話をする麗さんが、彼に対してだけは何やら親しげにしているのだから、相当なのだろう。

「…よく一緒に仕事をするんですか?」
 途端に気になってしまい、つい俺は訊ねてしまう。

 んー、と俺の問いかけに気づいた彼が、癖らしい顎をさする動作をしながら答えた。

「お互いこの世界にずっと居るからなぁ。嫌でも会うね」
 はっはっは、と笑う姿がとても似合っていた。

「最近はそこまで会わなかったから一瞬忘れていたなぁ。…この光景も、前に見た」
 この光景、というのは無論麗さんが録音を中断させて指導を行っている今の姿である。

 それに加えて、彼の先ほどの『こんな新人』という発言を総合すれば、当然だが麗さんは普段更に上を目指す上級のアイドルを担当しているのだろう。

 ちひろさんとの因縁から翠に付いてくれることになった関係ということは以前知ったが、一体彼女達の過去には何があったのか。

 果てない問いを続けていると、彼は麗さんの背中を見ながら続ける。





403: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/24(月) 20:11:25.46 ID:LQWSwYS+o



「翠ちゃんは、この曲を合同フェスで発表すると共に発売する気だろう? よくこんな無謀なことするもんだ」
「…どうしてそれを?」

 合同フェスに参加する人間は、運営や事務所の関係者以外はしかるべき日までは知らされないはずだ。

 その事を問うと、彼は笑う。
「俺だぁって何十年もここにいるんだ。勝手に入ってくるし、第一なんとなくわかる」

 ……熟練者の勘というのは侮れないな。
 今回のイベントに関し、様々なルートから情報を仕入れてくるのだろう。

「まあ、それでも新人がー、だなんて命知らずなことに変わりないなぁ、全く」
 苦笑して済ますしかできない程、彼の言葉には反論できない。

 その洗礼を身をもって知ったゆかりからも止められたのだ。
 体験しなくとも、最悪の結末は嫌でもよく想像できる。

 それでも進むと決めたのだから、今どうのこうの考える事はしたくない。

「大丈夫ですよ。翠ならやってくれます」
 彼に言う。
 どこか翠が可哀想だという感情が伝わってきたからだ。

「根拠は?」
 どうせ担当のプロデューサーだから贔屓してそう言うんだろう、とでも言いたげに訊き返してくる。


 ここで翠の練習量を言ったところで、信用はしてくれない。

 なので、未だなお指導している彼女――麗さんに聞こえないように、俺は答えた。
「…担当があの人ですから」


 ……なるほど、という彼の言葉は、やけに納得したように聞こえた。





404: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/24(月) 20:11:51.68 ID:LQWSwYS+o



  *



 最終的に、半端でない位にリテイクを重ねた末、ようやく麗さんや音楽プロデューサーからの評価をもらって録音終了となった。

 午前から始まったこの作業も終わる頃には既に正午を過ぎていたことに、録音スタジオから出てから気付く。

 恐らく関係者の中には次の録音に立ち会うスケジュールを考えるために時間を確認して気付いていただろうが、全員が昼食を口にせず、翠の録音作業に集中していた。

 指導は麗さんだけではなく音楽プロデューサーからも入るようになったのも、時間が長引いた原因だろう。


 しかし、その時の彼の顔は苛立ってはいなかった。

 『こんな新人』である翠に対して場所関係なく熱心に指摘する麗さんの姿が、彼の心境に変化を与えたのかもしれない。


 それはすなわち、翠自身の録音作業への、ひいてはアイドルとしての姿勢があの場に居た皆に心理的影響を与えたに違いない。

 誰もが、リテイクを喰らう翠に対して不快感を抱いていなかったのだ。
 彼女の全力が、良い評価へとつながったのである。


 ……そう判断しているのは担当プロデューサーたる俺だから、特別そう見えるのかもしれないのだけども。





405: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/24(月) 20:13:02.41 ID:LQWSwYS+o



「…何度も失敗してしまってすみませんでした」
 空調の効いていたスタジオから外に出ると、一気に体が震える。

 とりあえず喉を休めるためにと麗さんが持参したドリンクを渡しつつ車に戻る途中、翠は突然立ち止まり、頭を下げた。


 そういう話は後でもいいだろうに、と思ったが、彼女なりに今言わなければいけないと判断したのだろうか。

「…ほら」
 呆気に取られていると、隣に居た麗さんは俺の腕を掴んで翠の方へ差し出した。
 ぼさっとしてないで気の利いたことを言ってやれ、とでも言いたげな表情だ。


 よくよく思えば、アイドルの言葉に対して適時適切迅速に言葉を返す事こそが担当プロデューサーとしての役割の一つなのである。

 それを麗さんに言われるまで気付かなかったのは俺の気遣いが足りなかったと言うことだ。


 こういう所もまだまだ未熟なんだな、と俺は思う。






406: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/24(月) 20:13:34.29 ID:LQWSwYS+o



「――あれは失敗じゃないよ」
 歩み寄って、慣れた動きでゆっくりと翠の頭に手を置くと、彼女は何事かと頭を上げて俺を見た。


 もしかしたら、真剣に歌っている中でも、何回もリテイクをしていることに翠はどこか申し訳なさを感じていたのかもしれない。

 しかし、それは失敗ではないのだ、と俺は答え、置いた手を左右に動かす。

「麗さんも他の人も、本気になって翠に教えてくれたんだからさ。……それは失敗じゃなくて、改善と言うんだ」
「改善…」

 あの場に居た関係者が本気で翠のリテイクを失敗と捉えていたのなら、また後日に、という提案が出ていたもおかしくない。

 それは翠が新人という立場であるからだ。
 何も実績がないから、目の前の光景を実力と見てしまう。

 しかしそうしなかったのは何故か。
 当然、会社の方で決められた予定だからというのもあるが、回を重ねるごとに研ぎ澄まされていく彼女の歌声に気付いていたからに違いない。

 伊達に音楽に密接に関わっていた人達だ、微小な変化を見逃しているはずがない。

 だから、真剣に、そして寛容に待っていてくれたのだ。





407: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/24(月) 20:14:19.46 ID:LQWSwYS+o



「だから気にしなくていいし、俺達も気にしてないからな。むしろ、出来のいい声が録れて皆待ってよかったと思ってるんじゃないか?」
 はは、と笑って手を離す。

 新人に対する風当たりが良くないのはどこの業界でもそうだ。実績も信用もないのだから。

 それでも立ち向かえたのは、翠の折れない気持ちと、麗さんの向き合う姿勢が良かったからだ。

 謝ることはない、むしろ誇りに思っていい位だ。



 そう伝えると、彼女は安堵したように笑顔を見せてくれたのだった。





408: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/24(月) 20:14:49.18 ID:LQWSwYS+o



  *



「翠に見せたいものがあるんだ」

 事務所に入って少し休憩し、ちひろさんが淹れてくれた暖かいお茶を飲んで落ち着いたところで、俺は翠にそう切り出す。



 事務所。
 録音作業も終わり、一山越えたことに安心しつつ俺達は事務所に帰ってきた。

 実を言えば、今日の翠の仕事はもう存在しない。

 本来なら今日も録音が終わった後にいつもの所でレッスンをするつもりだったのだが、予想以上のリテイク数により喉を随分使ったということで、麗さんの提案により休養となったのであった。

 だったら麗さんを送った後、乗った車のまま翠を現在の寝泊まり先であるちひろさんの家まで送ればいいのではないか、と思われるが、そうはしない。


 事前に連絡が届いていた『あれ』を見せるために、事務所に寄ったのだ。





409: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/24(月) 20:15:16.79 ID:LQWSwYS+o



「ちひろさん。あれはどこに収納してます?」
 今日の歌の事についていくつか気づいた点を翠と話し合いをし、いくつかの修正点を頭にしまいこむ事が出来たところで、相変わらず事務作業をしているちひろさんに訊ねた。

「ああ……『あれ』、ですね」
 にんまり、といった笑みである。
 笑っていると言うよりも、いささか期待という意味合いが強そうな表情だ。

 まあ、わからなくもない。
 ちひろさんも、自らが携わったあれを披露することが出来るのだ。

 どんな表情をしてくれるだろう、どんな感想を言ってくれるだろう。
 ある種、生みの親のような気持ちになっているに違いない。

 当然の如く、俺も同類だった。


 代名詞を変換できないらしい翠は可愛らしく首を傾げて考え込んでいたが、内容を訊かれる前に俺はちひろさんに合図をする。

「じゃあ少しだけ待っててくれ、翠」
「は、はあ…。Pさんがそうおっしゃるのなら」

 悪いものじゃないさ、と一言付け加えて、俺はこちらの死角から後ろ手のまま戻ってきたちひろさんに近づく。

「…楽しそうですね、プロデューサーさん」
「お互い様ですよ」
 両者の笑みが一致した、数少ない瞬間だった。





410: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/24(月) 20:16:04.29 ID:LQWSwYS+o



「ふふ。翠ちゃん、立ってくれる?」
 訳の分からぬままといった表情のまま、翠はちひろさんの頼みを素直に聞いて立ち上がる。

 その傍ら、俺はちひろさんから受け取ったあれを同じく後ろ手で隠しつつ、翠に近づいた。

「ど、どうかしましたか?」
 改まって立って向き合うという通常でない状況に翠も困惑しているようだった。


 その顔を見て、心の中で少し心臓の音が高まる。

 こういう事をいっては意地悪だが、バラす瞬間というものは相手の反応がすごく楽しいのである。
 しかし、いつまでも溜めていては相手からも不快に思われてしまう。


 御託はさておいて、早速俺は後ろに持っていた両手を翠に差し出した。


「……翠。これを受け取って欲しい」

 彼女の視線が下がり、俺の手に持つあれを見た。





411: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/24(月) 20:16:50.85 ID:LQWSwYS+o



 青い――厳密に言えば空色の、さらさらとした布。

 何十にも折り重なった布が、グラデーションを描いて波を作っている。


 しかし、ただの布地ではない。

「……これは」
 それに気づいた翠は、ゆっくりと布の上方を掴んで吊るす。


 滝の流れに沿って布が広がり、本当の姿が顕になる。


 翠の目に映ったそれは。

 空色の、布は。


「私の……衣装?」

 ぽつりと呟いた翠の顔は、形容しがたいものとなっていた。





412: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/24(月) 20:17:16.63 ID:LQWSwYS+o




 もう解っただろうが、一応翠に説明する。

「急ピッチだったが、今度のライブの衣装だ。今日届いたばかりでな、早く見せたかったんだよ」

 翠は片手に載せた衣装を、もう片方の手で優しく撫でる。

 未だ実感がわかないのだろうか、その感触を、その存在を確かめるように、一回、二回と手を動かした。

「翠ちゃん、水色は好き?」
 俺の隣で翠の反応に嬉しそうにしていたちひろさんが訊ねる。

「…はい。私の苗字にもあるからかどうかはわかりませんが、青は好きです」

 彼女の名は水野翠。
 水は青色で翠は緑色。名前からは、丁度翡翠の色合いが浮かんでくる。

「これ、プロデューサーさんがこの色にしようって提案したんですよ」

 衣装の原案――デザインの大元は、ちひろさんが事前に考えてくれていた。
 そしてその時の彩色は緑色、つまり名前の元となる翡翠をイメージしたものだった。

 しかし、ベースの色だけはこの色になるように、俺が頼み込んで実現することになったのだ。





413: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/24(月) 20:18:07.56 ID:LQWSwYS+o



「…どうしてPさんはこの色に?」
 嬉しさを隠すと同時に疑問を浮かべ、翠は俺に問う。


 答えてよいものか、と少し悩む。
 いや、理由を言うのは大丈夫なのだが、如何せん堂々と言うには少し羞恥心が邪魔をしすぎているのだ。

「私から言いましょうか?」
 答えあぐねている俺をみかねて、ちひろさんが俺の顔を覗き込む。


 そういえば、ちひろさんには会議の時に全力でプレゼンテーションを行ったのだった。

 そして再び引かれたのも強く頭に残っている。
 翠をスカウトしたばかりの頃に開いた話し合いの時の光景と、相似になる位に似ていのだろう。

 その時の言葉を一字一句違わず他者に説明されるのは、自分で言うよりも絶対に恥ずかしい。

「いやいや…すいません言います」
「ふふ、じゃあ言ってあげて下さい」

 やっと観念したか、といった顔である。





414: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/24(月) 20:19:24.66 ID:LQWSwYS+o



 どんな答えが返ってくるのかという期待を胸に待つ翠に言葉を届ける。

「翠の名前の字の通り、最初は翡翠色になってたんだけど、調べてみたら翡翠ってのは緑以外にもたくさん色があるんだってな」

 合同フェスに参加することが決まってすぐ衣装の相談があり、その時から色々調べていた。

 翡翠には、緑が最高級としながらも、紫、赤、透明、黄色、青、黒など、条件の差により殆どの色が存在している。

 ならば字面で色を決めるのはおかしいのではないか、というのが俺の考えだった。


 では何色がいいか。
 何日も何日も、彩色したイメージ絵を見比べて考えた結果、たどり着いたのが水色なのだ。

「何故水色にしたかというとだな…個人的な事なんだけど、昔読んだ本に、青色は『手に入れようと願っても、手に入らない色』って書かれてたのを思い出してな」

 確か色にまつわる話を纏めた本だったと思う。
 ずっと昔に読んだ物で、タイトルすらもはや頭に浮かびそうにない位だ。

 にも関わらず、どうして青色の記述だけを思い出したのかというと、その言葉に当時疑問を抱いていたからだ。


 青色。
 空の色、海の色。身近な所にたくさんあるのに、どうして手にはいらないと言うのか。

 その時は適当なこと言ってるなあとしか思わなかったのだが、水野翠と接するようになって、好意を向けられて、もっと近くなって……その意味が、何となくわかったのだ。





415: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/24(月) 20:21:15.66 ID:LQWSwYS+o




 一目惚れをして。姿に魅了されて。

 素質に驚愕して。内面を知って。

 吐露を受け入れて。距離を縮めて。



 不安を必死に隠して。ただ信じて。

 努力をして。困難に勇ましく進んでいって。

 恐怖を打ち明けて。距離を縮めて。



 違う人間である俺達が、吸い込まれるように、今や手が触れる距離にまで近づいた。
 今なら、歳も性別も違えど心を通わせられると自信を持って言える。






416: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/24(月) 20:21:43.05 ID:LQWSwYS+o




 だが、それは叶わない。


 どれだけ近づいても、結局俺は翠ではない。

 翠の見ている景色をそのまま俺が見ることは出来ない。

 手も、足も、心も、全て同調しようと思っても、絶対に同一にはならないのだ。



 空を見る。

 空に手は届かない。近づいても、空気はいつも透明だ。

 海を眺める。

 海の水をすくっても色は逃げていく。手で支える水は、いつも透明だ。



 ああ、そういう事なのか、と俺は理解する。

 限りなく近づいたところで、それは決して重なることはない。


 ……手に入れたとしても、それはただ手に入れた気分になっているだけなのだ。





417: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/24(月) 20:22:23.19 ID:LQWSwYS+o



「俺はいつでも翠の傍にいるつもりだ。できるなら、いつまでも君と一緒に生きて行きたい。…それでも、舞台の上ではいつも翠は独りになってしまう」

 例え運命共同体だと宣ったところで、辛い部分は全て翠に丸投げしなければならない。
 俺はただそれを後ろで見ているだけなのだ。

「だから、青色……孤高の色を身に纏って、せめてアイドルとして姿を魅せる間だけは、何者にも負けない、触れさせないただ唯一の存在として舞い続けてほしい。そう思ったんだ」

 彼女は俺のことをこれからずっと一緒に仕事をしていくパートナーと思ってくれているのは、間違いようのない事実だ。

 だが、俺の存在というものは、彼女を語る上ではあってはならない。

 アイドルという身分になるのであれば、彼女の隣に俺は必要ない。
 自分というのは、あくまでアイドルを後ろから支える柱なのだから。


 故に、自立の意味も込めていた。

 いずれは一人でどんどん仕事をしていくようになるだろう。
 ますますアイドルとして人気が高まっていくだろう。
 もしかしたら、何時の日か俺の担当を外れてしまうかもしれない。


 それなのに、俺に固執していてはいつかは歯車が破綻する。

 ちぐはぐになって、ぐちゃぐちゃになって。
 現実と理想が乖離してしまう前に、彼女は彼女として独り立ちして欲しい。


 それが、俺の思いだった。





418: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/24(月) 20:23:21.84 ID:LQWSwYS+o



「…なんだか、寂しいです」
 予想通りといっては変だが、翠は心底寂しそうに呟いた。

 無理もない。
 一方的に突き放されたような気分になって当然だからだ。

「…というのが、一応の理由なんだけど……翠、ちょっと耳を貸してくれ」
「え、私には内緒ですか? プロデューサーさーん」

 何故耳を貸すのだろう、と疑問を呈したちひろさんには少しの間だけ外れて頂き、翠の下に近づいて柔肌の耳に口を近づけた。

 ひゃ、と彼女の口から小さく声が漏れたのが聞こえたが、ひとまず言いたいことを言おうと思う。


 …ここまでの話であれば、ただ彼女の巣立ちを見送るようにしか見えないが、それは仕事としての建前でしか無い。

 翠は、どういう訳か個人としての俺を望んだ。
 故に、許されるのなら俺は個人としての翠を望みたい。

「…そんな気高い翠が俺の隣に居れば、俺だけが本当の翠を知っているように思えて……ちょっとした独占欲かもな」
「へ、へ!?」

 ぼそりと囁いた言葉に、翠は大層大きな声を上げて飛び退いた。

 その声に俺の方も驚いて狼狽えてしまう。


 …いや、まあ驚かれるのはある意味承知していたのだけども。





419: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/24(月) 20:24:31.95 ID:LQWSwYS+o



 一体翠ちゃんに何を吹き込んだんですか、というちひろさんからの疑いの視線を見てみぬ振りをしつつ、更に…今度は普通に言ってやる。

「まあなんだ…。君をスカウトしてからずっと一緒にやってきたんだから、例え翠がどこかに離れて行ってしまおうとも、俺はずっと君を応援して、見守っている。そういう意味だ」

 もしもその時が来たら、俺は男のくせにわんわん泣いてしまうかもしれない。
 そう思ってしまう程、彼女と過ごした日々は俺にとって心底大切な思い出なのだった。


「……ふふっ」
 十秒も立たない内に、翠の表情が変わっていく。

 悲哀から歓喜へ。
 俺を見るその目が、笑う、喜ぶ。そういった物になっていた。


「ではその『晴れ姿』を今、Pさんに見せてもいいですか?」

 彼女とのあの出来事をちひろさんに秘密にしつつ思いを伝える事に成功して安堵する俺に対して、翠は衣装を抱きしめながら訊ねた。

 その頼みなら、俺からも是非お願いしたい。
 青色を身に纏った、穢れ無きその姿を見てみたい。

「おお、見せてくれるのか。じゃあ俺は外に出てるから…すみませんちひろさん、手伝ってあげてくれませんか?」
「むう、何だか内容が気になりますが……いいですよ」

 すみませんちひろさん、それだけは絶対に言えません。

 イケないことの範疇を認識しておきながらその中に片足を突っ込んでいる状態を、わざわざ知らせられる訳がない。

 申し訳ないが、彼女に何らかの感情の変化が起こるまでは俺達二人だけの秘密にさせてもらおうと思う。

 そう思いつつ事務所の外に退避して、着替え終わるのを待つことにした。





420: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/24(月) 20:25:34.38 ID:LQWSwYS+o


  *



 ――こんこん、とドアの向こうから扉を叩く音がする。

 寒い外に放り出されてからおよそ十分程度。
 メイクをする程のものではなく、あくまで試着なのだから、この時間でも早すぎる訳ではない。

 そしてわざわざノックをして教えてくれたということは、翠の着替えが完了したということだ。


 ずっと思い続けていた想像上の衣装姿が、扉を開ければ現実となる。

 アイドルとして一つの区切りであるライブ。
 そのためだけに用意した翠だけの衣装が、ようやく本人と一つになるのだ。


 心臓の音が高まる。
 焦燥感でも、緊張感でもない。

 ただ俺の中にある興奮が心臓を一層締め付け、ドアノブを握る拳に力を加えた。


 ゆっくりと回す。
 まるで勿体ぶるかのように。

 極めてスローモーションな扉の動きが、外と内の境目を消す。



 ――味気ない事務所の中に、一人のシンデレラが現れた。






421: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/24(月) 20:26:33.28 ID:LQWSwYS+o




「…どうでしょうか」

 今日の空を覆い尽くしている陰りなど一瞬で吹き飛ばしてしまいそうな、空色の穢れ無き衣装を身に纏う少女が目の前に立っている。

 そのシンデレラの顔に、曇りはない。

 彼女の言葉にも、訊ねるのではない、披露し、魅せて当たり前だと言わんばかりの毅然たる雰囲気が表れていた。


 唾を飲む音が、こくんと骨に伝わる。

 制服姿で出会い、弓道着姿に魅了され、私服姿で共に歩き、そして今度は一つの旅立ちを迎える。

 俺が思っていた翠は。
 俺が願っていた姿は。


 これほどまでに幻想的で…現実なのだと、その存在が脳に焼き付いた。






422: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/24(月) 20:27:06.84 ID:LQWSwYS+o



「……いい」
「え?」

 湧き上がる称賛の言葉を厳選するがあまり、排除されたはずの感想が漏れでてしまう。


 何といえばいい? 何と表現すればいい?

 一人の少女をアイドルにして、そしてここまで導くことが出来たその本人の見違える姿を……どう称賛すればいいのだろう。

 考えを放棄して、溜め込んだありったけの言葉を解き放つ。

「最高…最高だよ、素晴らしい。誰よりも可愛くて、綺麗で可憐で、それでいて気高い……まさしくシンデレラだ」
「え、ええっ!?」

 自分でも何を言っているのかよくわからなくなってくるほどに、彼女の姿というのは何よりも代えがたい、この世で似るものはない美しさだった。

「はいはい……プロデューサーさん、変なオーラが出てますよ」
 見かねたらしいちひろさんが呆れながら俺を窘めた。

 …まあ、確かに調子に乗って褒めすぎたきらいはあるかもしれない。


 だが、それだけ嬉しいのだ。

 決して一本道ではなくても、こうして成功へ道のりを歩んで行くことが出来たのだから。


 素人が素人を、無事導くことができたのだ。

 湧き上がる感情が、悲しいものであるはずがない。





423: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/24(月) 20:28:03.53 ID:LQWSwYS+o




「――ありがとうございました」

 俺の無遠慮な言葉を全て聞いて飲み込むと、翠は深々と礼をした。
 ドレス姿であるが故に、品の良さがより強調される。

「…少し早いですが、聞いてくれますか」
 そして顔を上げ、俺に問う。

「ああ、聞くよ」
 隣でにこやかに微笑んでいたちひろさんが、この場を離れて給湯室へと入っていった。

 俺達の声は、他の誰にも聞こえない。

 何故今のタイミングで出て行ったのかは流石の俺にも理解している。
 翠の表情を見て『そういう雰囲気』を察知したから離れる、そんな気遣いだろう。


 ちひろさんの靴音を聞き届けた翠は語る。

「不安でどうしようもなかった、何も知らない私がこのような綺麗なドレスを着れるなんて思わなくて…でも本当に嬉しくて」

 誰にでもある不安。いつか、俺はそう翠に伝えた。
 だが、彼女の持つ不安は彼女だけのものだ。

 それを乗り越えて俺を信頼してくれたから、ここまで来れたのである。
 決して偶然でも虚実でもない、あるがままの事実だ。


 ふふ、と笑ったあと、翠は俺の目を貫くような綺麗な瞳を俺に向けた。


「私……あなたと出会えて、本当に良かったです」

 そして、私を見つけてくれた人があなたで――本当に幸せです。





424: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/24(月) 20:29:22.93 ID:LQWSwYS+o



 自然と目頭が熱くなる。
 さながら結婚式を迎える娘を見つめる父親のような気分だ。

 別れる訳でもないのに、まだまだこれからも歩き続けていかなければいけないのに。

 どうして、こうも顔が熱くなってくるのだろう。


「私はPさんの願うアイドルになれましたか?」
 再度、翠は問う。

 答えなんて言わなくてもわかってるくせに。
 前の仕返しだろうか、それでも俺は言ってやる。

「…勿論だ。翠なら、ファンの皆全てを魅了できるさ」

 できないはずがない。
 これだけ一生懸命やってきて、成功以外の道を歩くつもりはないさ。

 すると翠は何が琴線に触れたのか、くすりと俺に笑いかける。

「何がおかしい?」
 いえ、違うんです、と翠は釈明してからこう言った。

「ファンの皆を魅了する前に…ふふ、先にあなたを魅了したいな、と思いまして」
 できてますか、と首を傾げて訊ねる姿を、どことなく小悪魔と錯覚する。


「……とっくの昔にされてるっての」

 何となく心を見透かされたような気がして、不意に俺は翠の頭をぽんと叩いたのだった。





425: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/24(月) 20:30:27.72 ID:LQWSwYS+o




  *


 ――事務所は再び日常に戻る。


 試着状態である上、衣装がシワになると不味いので適当な頃合で着替えてもらったからだ。
 貧相な事務所のせいで、あのままだと背景と人物に違和感が付き纏って離れないのである。


 ちひろさんはその衣装を収納してから、ソファに座りつつも未だ興奮冷めやらぬ翠に再び仕事の話を振り出した。

「翠ちゃんは、何かこう…自分を表す言葉とか思いつく?」
 ソファで向かい合った俺達の手元のテーブルに、ちひろさんは一枚の紙を置いた。

「……なるほど、ライブ用のアピールのための言葉ですか」
 それを翠が手に取ると、書かれた文字を素早く読んで理解したようだ。


 有り体に言えば、二つ名のようなものである。

 通常のソロで行うライブであれば、訪れるファンは披露するアイドルの名前を知っていて当然なので特に必要はないが、合同フェスのような様々なアイドルが出入りするイベントにおいては、その本人の詳細を知らない事も稀ではない。

 なので、本人を端的にわかりやすく観客に知ってもらうために、そのアイドルを色濃く表すような言葉を付けるのが恒例であった。

 ちひろさんが渡した紙には、翠用に考えた言葉が羅列されていたのである。





426: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/24(月) 20:31:26.20 ID:LQWSwYS+o



「なんだか自分でそれを考えるのは恥ずかしいですね……」
「…まあそうだよな」

 無理もない。

 誰が好んで自分を評価して名付るのだろうか。
 ナルシストでも無ければ自分から進んで言える人はそう多くない。

「とりあえず私達でこれだけ考えてみたんだけど…何か気に入ったのはありますか?」
 ちひろさんの言葉に、再度翠は目を通す。

 やれ女王だの、妖精だの、カタカナ言葉やら難解な言葉を使用したネームがずらりと並んだ紙面。

 俺達ですら、その紙を作成するときはうんうんと悩んだものである。
 それだけ名付けというものは責任重大で、尚且つセンスが問われるのだ。


 うーん、と上から下に視線を下ろし終えた翠は、不意に俺の顔を見る。

「……Pさんに決めて欲しいです」

 責任放棄ととるべきか、はたまた信頼ととるべきか。

 眉を下げて苦笑するちひろさんを他所に、受け取った紙を改めて眺めることにした。





427: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/24(月) 20:32:04.00 ID:LQWSwYS+o




 翠を一言で表す言葉。
 これほど簡単なようで難しい事はない。

 何故なら、数えきれない程の仕草や行動、性格、趣味、ひいては人生をたった少しの文字で表さなければいけないからだ。


 しばし目を閉じて考えてみる。

 俺は何を見てきたか。
 翠の何に惹かれたか。

 彼女の人生の中のたった十八分の一にも満たない時間を過ごして、俺は何を思ったのか。



 出会った最初の頃から早送りで記憶を再生していると、共通する言葉がふと頭に浮かんだ。


「純真……」


 思いついた時、俺は妙に納得してしまった。





428: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/24(月) 20:32:51.77 ID:LQWSwYS+o




「純真、ですか?」
 翠は不思議そうに訊ねる。


 ――思えば、翠の性格は純真というべきものだった。

 素性の知らない俺を疑わず助け、先の分からない道を信じて歩き、中身の分からない俺に迷わず付いてきてくれた。

 そして、俺や彼女自身に纏わりつく全てを無視してでも好きだと言って俺を苦しめ、悩ませた。

「純真だけじゃ物足りないから…そうだな、娘という意味で子女を入れて『純真子女』ってのはどうだ?」

 いつの間にか父親のようになった気分になって、娘を思うような気持ちになってしまう。

 翠にぴったりで……ある種、彼女への皮肉めいた言葉だった。


「純真子女……ふふ、いいですね。ちひろさんはどうですか?」

 半ば思いついきのような意見ではあったが翠は気に入ってくれたようで、ちひろさんに顔を向けて是非を問うた。

「プロデューサーさんにしては良いセンスですね。採用しましょう」
「にしては、は余計ですよ」
 大方、翠に関する会議での俺の言動への当て付けだろう、にやりと笑ってから紙を俺から受け取って、彼女のデスクへと戻っていった。





429: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/24(月) 20:33:48.51 ID:LQWSwYS+o



「これから活動していく際にも当面その名前を使うとして…相手方にもそう伝えておきますね」
 かたかた、とキーボードを叩く傍ら、ちひろさんはそう言った。

 相手方、というのは無論合同フェスの運営である。
 それらアイドル達の資料をまとめあげ、当日でゴタゴタすることのないように利用するのだ。


 これでイベントに向けた大体の準備が終わりとなる。

 後必要なのは、当日に向けた確認の打ち合わせと別の日にライブのリハーサル、そして翠はCDのジャケット撮影も残っている。


「本番は合同フェスだからな、今喜んでると当日楽しめないぞ」

 気を抜くな、とは言わない。
 全力で臨んで欲しいのは言うまでもないのだ。

 だったら、無理に意識させる必要もあるまい。

「……はい!」


 本番まで、そう多くの時間はない。

 休みたいなら過ぎてから沢山休めばいい。
 だからそれまでは、俺は本気で向かって行きたい。





430: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/24(月) 20:34:29.69 ID:LQWSwYS+o



  *



 しばらく曇りがちだった秋空も久しぶりに綺麗な太陽が昇り、堂々たる冬の季節柄暖かくはないが心地良い空気が会場を包み込んでいた。


 合同フェス。

 開催まで既に一ヶ月を切っている12月初め、参加者の担当プロデューサーを集めて当日の流れをスムーズに行うための確認の打ち合わせが行われることになっていた。


 イベントの開催場所は首都郊外の広大な公園。

 その内の芝生のある広場にてイベント会場が設置されることになっている。
 また広場周辺では合同フェスに向けて屋台や商店街のコラボなども多く行われており、もはや街ぐるみの巨大な商売機会を形成しているようだった。


 当たり前の話ではあるが、会場は既に完成されている。
 舞台が無ければかなりの敷地を誇っていただろうこの広場も、舞台が角を埋めるようにせり立ったおかげで狭く感じるほどだ。

 実際にはここから観客が大勢入るのだから、当日は相当混雑を覚悟しなければいけないだろう。





431: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/24(月) 20:35:15.88 ID:LQWSwYS+o



「おはようございます。シンデレラガールズ・プロダクションの者です」

 むき出しにされた骨組みの舞台を横目に、数人のスーツ姿の男性が集まっている所に加わると、一斉にこちらを振り向き、口々に挨拶が返ってくる。

「ああ、あなたがそうですか。はじめまして」
 その中でも一際熟練じみた風格の男性が、俺を待っていたを言わんばかりに一際大きく挨拶をした。

 それから改めて自己紹介してもらう。

 皆それぞれ一度は聞いたことのあるような有名事務所でソロないしユニットを担当している人たちで、この世界についてまだお世辞にも熟知しているとは言えない俺でも、無意識に気遅れてしまう。


 同じプロデューサー業という範疇での知り合いはゆかりのプロデューサーだけな上、基本的に今まで対話をしてきた相手は明確に立場も役職も違う人たちだったので、接し方につい戸惑ってしまう。

「確か貴方は初めてだそうですね? 大丈夫です、緊張しないで…成功させましょう。私は運営側の人間ですので、あなたの成功に精一杯協力します」
 またもや先ほどの男性が俺に対して柔和な口調で励ましてくれた。

 これではまるで子供をあやす大人だ。

 こんな姿は翠に見せられないな、そう考えると、せめてもの抵抗として元気よく返事をすることにしておいた。





432: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/24(月) 20:36:21.92 ID:LQWSwYS+o




「実際に参加するメンバーを公表するのは後の特番になりますが、関係者の皆様方には先にこちらの紙面とメールにてお知らせしておきます」

 各々の人と名刺を交換してあらかた顔と名前を覚えたところで、運営の男性が紙を皆にそれぞれ回した。

 最後となる俺の番が来て受け取ると、翠の順番を探す暇もなく話が再開された。

「念の為改めて説明しますが、フェスでは昼の部と夜の部、二つに分けて開催します。今日集まってくださった皆さんは夜の部を担当することになりますので、よろしくお願いします」

 紙面に印刷された一覧にも昼と夜でメンバー表が分けられ、ずらりと並んでいる。
 恐らく舞台の演出なども昼夜で大きく異なってくるのだろう、間に設けられた休憩と称した準備時間の短さが何とも運営委員の忙しさを表していた。


「今ここに居らっしゃるのは……Pさん以外は皆過去のイベントを経験して何度も流れは見てきていますから、必要な方だけ残って私に質問して下さい。以上です」

 彼の掛け声と共に、先程まで集まって視線を注いでいた他所の事務所の男性たちは別れの言葉を残して皆散り散りに去っていってしまった。




433: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/24(月) 20:37:50.55 ID:LQWSwYS+o



  *


 ――あっけなくてびっくりしたのでは?

 まさかここまでとは、と目が点に近づきつつあった俺の下に運営の男性が話しかけてくれた。

 独特な風格であるにも関わらずどこか優しげな雰囲気を感じるのは、やはりビジネスマンとして生きてきた上で身に付けた技能なのだろうか。

「え、あ…そうですね。もっときっちりするものだと思ってました」
 とんでもない、と言うのも一つの回答だが、初心者らしく正直に感想を述べることにしたのだった。


 …そして。

 男性は軽く笑った後、耳を疑うような事をさらっと言った。

「顔合わせを兼ねた最初の打ち合わせはもう既に行なってますから、他の皆にとっては今日は会場の視察が主な目的みたいなものですよ」


 手元に鏡を持っていたなら、きっと瞬間的に青ざめていたことがわかっただろう。





434: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/24(月) 20:38:18.59 ID:LQWSwYS+o




「あれ、どうしました?」
 心配になったのか、はたまた本当に顔が青色に染まっていたのか、男性は不安げに俺に訊ねる。


 どういうことだ?

 俺にとって今日が初めての打ち合わせだ。
 記憶喪失になっていたという理由でなければ、覚えていないはずがない。

 にも関わらず今日は初めてでないという。


 何が起こったのかわからない、そんな言葉が今ほど似合うのは人生で今ぐらいだ。


 なんて声を掛けようか、という表情をしていた男性は、次にもまた驚くような事を言う。

「ああ、確かあの時は女性の…千川さんといったかな、その方が担当していましたね」


 自分の知らない所で何が起こっているのか、それを一度整理する必要がありそうだ。






435: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/24(月) 20:38:59.22 ID:LQWSwYS+o




 確かに、ちひろさんはこの合同フェスに関する各々の処理は彼女自身が片付ける、と明言していた。
 だから俺は言葉に甘えて翠のために時間を注ぐことができたのだ。

 そしてフェスに関する細かい情報は逐一彼女から受け取っているので、段取りも一応理解は出来ている。

 その『各々の処理』という物がどの程度まで彼女がやってくれていたかを想像すると、心臓の鼓動が一段と大きくなった。


 まさか、書面での対応の他にも実際に会議をして今回参加する翠についての説明やアピールなどをしてくれていた、ということなのだろうか。

 …仮にそうであれば、新人のアイドルを参加させていてしかも初対面の俺に対して皆が比較的温和な対応をとってくれた理由も、僅かではあるが納得することが出来る。

 ちひろさんが優秀で手際も要領も良いのは以前から重々分かっていたつもりではあったが、よもや日々の事務所の管理作業をこなしつつ交渉や手配も行なっているとは流石に思わなかった。


 きっと俺の知らないところで人知れず作業をかなりこなしているのかもしれない。

 そう思うと、また今度にでも彼女のために何かしてやりたい、と考えてしまう。

 いつの日かの二人での食事のような形態でなくてもいい。
 俺達が快適に動けているのも全てちひろさんが居るおかげなのだ、叶えられる範囲で何かお願いでも聞こうかな、と不意に思った俺だった。





436: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/24(月) 20:39:40.83 ID:LQWSwYS+o



 と、今の状況を思い出す。

 このフェスでの質問、という話題だったか。

 ちひろさんから受けた大体の説明は頭に叩きこんであるので、あと気になることといえば、と考えて口に出す。

「そういえばあの舞台って、どの程度個人で演出を入れてもらえるんですか?」

 ドーム球場のように予めそれなりの設備がある訳ではない野外のライブにおいて、疑問点は大体それに尽きた。
 以前ちひろさんと相談して取り決めた要望は送っているはずだが、結局その通りに作ってもらえているのかどうかは未だに知らないのである。

「ああ、そうですねえ…」
 彼は近くにそびえ立つ舞台を指さして、動かしながら答える。

「こちらで用意できるのは照明やレーザー、火柱、散水、花火が主ですね。勿論スクリーンも五枚用意してます」
 つまりライブを行う上でよく使用される演出の殆どがここでも使えるらしい。

 これがマイナーな野外ライブであればそうもいかなかっただろうが、流石有名イベント、出演者側の要望はしっかりと応えているらしい。

「ええと、確か翠の時の演出は……」
 ちひろさんと話した内容を回顧する。

「水野さんの時は、現状ではスクリーンの映像とレーザーを聞いてますね。今ならある程度は追加できますよ」

 他のイベントであればまず怒られるだろう話を彼は悠々と答えてみせた。





437: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/24(月) 20:40:17.79 ID:LQWSwYS+o



 回答に感謝して、改めて考えてみる。

 例えば使用楽曲がポップ系ならば、それに合わせて動きのあるレーザーや火柱を用いるのが一般的だが、今回翠が歌うのはあくまで落ち着いた曲調の物だ。

 そこに激しい演出を入れても良い効果はなく、却って違和感が生まれて観客もノリきれなくなってしまう。


 だとすると、実物を見ないとはっきりとはいえないが、現状でも問題ないように思えるが、俺はここで一つ思いつく。

 次に行うリハーサルでもまた調整できるので無理を通すことはないが、一応言うだけ言ってみても損はないだろう。


 では提案を、と頭の中に出来た文章を口に出そうとした時、それとは別として俺は不意に素朴な疑問が浮かんだ。

「……聞いてもらえるのはありがたいのですが、当日まで期間も短いのに大丈夫なんですか?」

 綿密なスケジューリングと意思疎通を経て行う通常のライブと違って、合同フェスは短期間で準備から調整まで全て行うという特殊な形態となっている。

 それが可能なのも、出演する方も手馴れているのに加えて、運営側もスタッフを総動員しているからだろう。

 個人的には、時間に余裕を持って前々から準備した方がコスト面でも得だと思う、と俺が問うと、彼は少し間をとって言い切った。





438: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/24(月) 20:41:05.70 ID:LQWSwYS+o



「…私はね、出演者の方々の全力のパフォーマンスが見たいんですよ。だから要望があるなら前日でも聞きますし、可能な限り応えます」
 言うまでもなく当然の事である。

 自らが主催するイベントで出演者が手を抜いているようなことは、あるべきでないと思うのが普通だ。

「そうするのは、何より『それ』を言い訳にして欲しくないからなんです」

 仮に自分の番で全力を出せなかったとしたら、その事を本人以外の事柄を責任として目を逸らさないで欲しい。

 つまり、土台は全部要望通りに作るから、本番中の失敗は全部本人に原因があるんだぞ、という訳だ。

「あなたの成功を応援しています。ですが、あなたのアイドルの失敗には私共は関係しませんし、観客も黙ってはいないでしょうね」

 彼の目はにこやかに笑っている。
 優しく、迷子になった子供に親身になって語りかけているような、敵対心のない瞳だ。

 しかし、その実彼の目はある意味現実的だった。

 彼が俺に言った「精一杯協力します」という言葉は、後ろから支えるのではなく、道を整備する、という意味合いなのである。

 後ろで支えていて本人が倒れたなら責任があるだろうが、道を整備して倒れてしまっても、彼には何ら責任はない。

 ゆかりのプロデューサーとはまた違った厳密さがこのイベントにはあった。





439: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/24(月) 20:42:26.71 ID:LQWSwYS+o



 恐ろしい、と言ってしまえばそれだけだし、こういった対外でのパフォーマンスであればこれが普通なのだが、その一言で済む程に彼の言葉はいやに冷たく感じた。

「…わかりました。それでは要望ですが――」

 切り替えて、俺は頭でこねくりかえしていた文章を切り出す。


 大丈夫。そんな言葉で焦っても仕方ない。
 普通にやれば失敗することはないんだ。


 半ば反芻するようにして、俺は鼓動を落ち着かせていた。





440: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/24(月) 20:44:32.18 ID:LQWSwYS+o



  *




「……おう、また会ったな」

 伝えたい事項も全て言い終えて、会場を見学してリハーサルに備えようと立地や観客からの角度などをチェックしていると、不意に声を掛けられた。

 振り向くと、今年になってもう何度も見かけた男性…ゆかりのプロデューサーがいつも通りぶっきらぼうな顔つきで立っていたのである。

「ああ、こんにちは。先日の収録ではどうも」
 先日というのは二人揃って出演を果たしたテレビ収録の日の事である。

 レッスンに時間をかなり割いているため通常の仕事量は増やせないが、まだ開拓してない所からも時々オファーが来るようになったのは喜ばしいことである。


「ところで、あなたも会場のチェックを?」
 打ち合わせのため集まった先程の時には彼の姿を見かけなかったので、翠とは違って昼の部の出演なのだろう。

「そうだ。…悪いが、覚悟しておけよ」
「え?」
 バツが悪そうに突然そう言った彼の言葉に違和感が残った。

 覚悟、とはどういう意味なのだろうか。

「……なんだそのよくわかってない顔は」
 どうやら彼には俺の思考がお見通しらしい。





441: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/24(月) 20:45:28.58 ID:LQWSwYS+o



「出演者リストはもうもらっただろう? 翠の一つ前の名前を見てみろ」
「……あ」

 そういえば、渡されたあの時はメンバーの一覧をじっと見る間もなく説明が始まったので詳しく確認ができなかったのだった。

 俺が漏らした声と共に、翠の名前が見つかる。
 問題は、その名前の上にある文字だ。


「……水本、ゆかり」

 水本ゆかり、という言葉はもはや俺や翠の間でも聞き慣れたものになっていた。
 おおよそ親近感の沸く間柄といっても差し支えない。


 昼の部と勝手に思っていたが、よく見てみると翠と同じく夜の部だったのだ。

 運営の男性の話を思い出す。
 あれだけ縛りのない緩い打ち合わせなら、イベントの詳細をすでに知っている前回以前の出演者の中にはそれに出席しない人間が居ても不思議ではない。

 つまり、彼はその中の一人という事だったのだ。

 それ以前に、出演者リストに載っている数と今日挨拶した人の数が明らかにあわないので、彼以外にもいると見て間違いはない。


 …まあ、正直に言ってそこは大した問題ではない。
 一番の問題は、ゆかりが翠の前の番ということである。


 翠にとって彼女は大事な友達だが、今回だけは。

「敵、というわけだ」

 ゆかりは翠の前に立つ……大きな壁となっていた。





442: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/24(月) 20:46:00.54 ID:LQWSwYS+o




 順番なんて、関係ない。

 そう思えるほど自信や実績があればいいが、現時点ではそう安直に楽観視は出来なかった。

 ゆかりの披露する曲は恐らく、最近発売され若い年代に人気を博した女性の恋心を描いたバラード曲だろう。
 初週の売上げランキングのトップ10に入るほどの人気、と言えばわかりやすいだろうか。

 携帯電話会社のCMソングにも起用され、彼女に興味のない人でも聞いたという人は多い。

 俺も購入して聞いてみたが、圧倒的な声量で歌う恋人への思いは驚くほど心を揺さぶってきたのをはっきりと覚えている。



 …奇しくも、音楽ジャンルとしては翠と同じ土俵なのだ。

 それが何を意味するのかといえば、極めて簡単に答えが出る。

「……そうですか」
 当て馬。以前ゆかりが苦しい過去を晒してでも俺に教えてくれた実情と、今回相手方が仕掛けてくる細工の中で出てきた言葉だ。


 まさにその通りの事が起きたのである。

 これも本人が全力を出せない外部的要因に値するのではないかと考えたが、運営の彼や他の方が運営方針に則って順番を決めたのだから、恐らく理解はされない。

 また、下衆な勘ぐりが許されるのなら、イベントの主催に関し何らかの援助をしているのかもしれない。
 でなければ、招待枠の権利を狙って獲得できるとは到底思えないからだ。


 相手にとってみれば、俺達の事務所はたったひとりのアイドルしか所属させられない貧弱な事務所で、潰れてしまっても何ら問題もない、と判断したのだろう。

 後に格下を持ってくることで、披露後に観客がゆかりへの評価を相対的に上げるという算段である。
 …去年実力を満たないゆかりを無理矢理ねじ込んだ割には、今年は随分彼女を信用しているんだな、と呆れさえしてくる。

 結局お上にとってアイドルとは商売道具なのだろう。
 その考えには否定しないが、かといって今のその方針が正しいとは全く思わない。

 それも、事務所が違うから言っても詮ないことなのだけれども。





443: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/24(月) 20:47:07.61 ID:LQWSwYS+o




「俺自身はお前の所とやりあうつもりはないんだけどな」
 そう答える彼の表情も、隠しきれず、苦しそうだった。

 現実を直視して、厳しく、冷静にプロデューサーをやってきた彼でさえそんな表情をするとは、彼なりに俺達に対して友好的に思ってくれているという事なのだろうか。

「…でも、感謝してますよ、私は」

 だったら、尚更俺は下を向く訳にはいかない。

 どれだけ不利な状況に持ち込まれようとも、そもそも彼ら事務所が居なければ今この場に俺や翠は存在できないのだ。

 つまりは、参加する権利をもらう代わりに、少し相手に有利な状況を許してやっただけ。


 そう考えるのが、俺の精一杯だった。

「…そう言ってくれると助かるな。俺も善意を捨てた訳じゃないから」
「わかってますよ」
 冷静と冷酷は似ているようで全く違う。

 その程度の違いがわからないほど俺も目や頭は悪くない。

 彼なりの辛さが偽物であるはずがないのだ。
 それはゆかりの担当になったことで保証している。





444: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/24(月) 20:48:20.84 ID:LQWSwYS+o




「表立っては言えないが、俺もアイツも、お前達を応援してるよ」

 彼はそう言って、会場の別の地点へと去っていった。


 別に俺はいい。本番では舞台裏から見ているだけなのだから。

 ただ翠にとって、ゆかりの後に歌うという事が何らかのプレッシャーにならないといいのだが、と懸念する。


 ……もう決まったことは仕方がない。

 俺の立場では、結局その方面について考えた所で無意味に等しいのである。


 ならば俺に出来ることは、ただ事実をありのまま翠に伝え、そして彼女が全力でパフォーマンスを披露できるように支えてやるだけだ。


 そうと決まれば話は早い。

 出来る限りこの会場の事をまとめて、事細かく翠に伝えられるようにメモをとらなければ、と思い、彼に負けじと俺も作業を再開した。





445: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/24(月) 20:49:06.36 ID:LQWSwYS+o




「大体収容する人のラインがここだから…もう少しパフォーマンスは前に出たほうがいいか」
 視線をメモと舞台を行き来させながら当日の演出についてもう少し考えてみる。


 以前、ちひろさんや翠、麗さんを含めたフェス対策会議を開いたことがある。

 主に舞台上での動き方や口上などを説明、議論していたのだが、そこでも確かにちひろさんは確固たる考えを予め持っていたのだ。

 それだけなら事前に過去のイベントを見て調べ尽くしたから、と言えるのだが、気になるのは麗さんがちひろさんの発言に対して甚く同調していた点だ。

 まるで何度も話し合いをしてきたかのような…俺抜きでやっているような気がして、懐疑心がなかなか抜けない。

 そうでなくとも、ちひろさんの行動が時々不明になる時がある。
 裏で色々サポートしてくれているはずだと思うが、俺が知らないのはどこの事務所でもそうなのだろうか。

 このフェスが終って一段落したら、一度聞いてみるのもいいかもしれない。



 そんな事を思っていると、不意に遠くの会場沿いの建造物群が目に入る。

 舞台にやや隠れてしまってはいるが、土産屋やアンテナショップ、レストランなど、まさにここに来る客に狙った店舗がずらりと並んでいて、商魂たくましいな、と苦笑する。





446: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/24(月) 20:49:32.77 ID:LQWSwYS+o




 ――ああ、そうだ。

 視察ついでに近場で甘いデザートが食べられる場所を探しておいてもいいかもしれない。


 無事成功させて、喜びを分かち合って。
 ライブが終わって、余裕があれば慰労として食べに行って、お疲れ様、おめでとうって言って、笑い合って。

 そしてこれからの活動に思いを馳せ、また一区切りとなるであろうその日に、今までの思い出を語り合うのも悪くない。



 もしかしたらライブ後に人気が爆発してテレビやら雑誌やらに引っ張りだこになって、ゆかりのプロデューサーも羨むほど多忙になるかもしれない。

 ならゆっくり動けるのも今のうちだろうか。


 …目の前にそびえる壁に立ち向かう時、味方をしてくれるのは不安ではなく希望だ。

 少なくとも、俺達が今持つべきものは苦しみではない。


 あともう少しだけ会場を見て回ったら、近くの本屋でスイーツ情報が載った雑誌でも買って、それで翠にも見せてやろう。



 そんな現実逃避にも似た考えを無慈悲にも叩き割ったのは。


「……ん、電話か」


 感情のない、着信音だった。





447: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/24(月) 20:50:43.12 ID:LQWSwYS+o








 ――変化とは突如起きるものなのだと、以前の俺は結論づけた。


 まさしく、それは本当の事だったのである。






448: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/24(月) 20:51:19.84 ID:LQWSwYS+o




  *



「翠…、翠……!」

 激しい動悸が肋骨の内側を痛めつけ、途切れることのない呼吸が喉を荒らす。

 息をすることがこれほどまでに苦しいとは、かつて感じたことがない。

 躰を揺らす。上下に、左右に。

 足が回る。地面を踏み抜き、駆ける。



 何も考えられない。

 ただ走る。ただ走る。ただただ走り続けている。

 足の混濁も心臓の爆発も否応なく、翠のいる場所に向かって……走り続けていた。






449: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/06/24(月) 20:52:19.06 ID:LQWSwYS+o




 サラリーマンや私服の人間が占領している真昼間の都内。


 何の不幸か、駅前のロータリーにタクシーが留まっていなかったのである。
 それでも待っていられなかったので、我武者羅に走っていたのだった。


 しばらく体力の続くまま歩道を走っていると、少し先に丁度客を降ろすタクシーの姿があった。
 息絶え絶えのまま手を振り上げて今にも走り出しそうなタクシーをそのまま停止させ、半ば倒れこむようにして乗り込む。

 タクシーの運転手はそんな俺を心配する視線を向けたが、それすらも無視して俺は運転手に一言、行き先を伝えた。

「病院まで、はぁ…はぁ、お願いしま…す」

 そう。
 俺の行きたかった場所は。
 行かなければいけない場所は。


 ――翠が搬送された病院だった。




453: 再開 2013/07/02(火) 21:42:30.19 ID:iyM0Mdx3o


  *


 初期設定の着信音が鳴った事に気づくと、ディスプレイの文字を見る。

 そこには『青木 麗』と表示され、それを元に発信相手を判断した。


「麗さんか…どうしたんだろ」

 今日の彼女の予定といえば、相変わらず翠とのレッスンであった。

 昼過ぎの今なら、彼女達は昼食の休憩を終えて練習を再開しようか、といった頃合いだろうか。


 それにしても珍しい事が起きたものだ。

 携帯電話番号とメールアドレスはそれぞれ交換しているが、こうして連絡した事はレッスンの予定変更やスケジュールの相談等以外では全く無かった。

 その連絡さえも俺がほぼ毎日翠に会いに行っているせいかその都度口頭で連絡出来てしまっていて、実際に使われたことはあまり記憶に無い。

 本人も公私の区別は付けていて、この連絡帳を使う時は何か緊急のことぐらいだろうな、と笑って言っていた。





454: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/02(火) 21:43:41.85 ID:iyM0Mdx3o




 では何の用だろうか。

 そんな疑問を浮かべって通話ボタンを押す。

「……プロデューサー殿」

 もしもし、という俺の言葉を無視して、麗さんは静かにそう呼びかけた。


 その瞬間から、咄嗟に違和感が頭を支配する。

 落ち込むという感じともまた違う、どこか沈んだ声色の麗さんだ。
 俺の知る限りでは聞いたことのない声だった。

「麗さん……麗さん? どうかしましたか?」

 以降発声しない麗さんをますます訝しんでこちらから何度か声をかけると、麗さんは押し潰されそうな声で、すまない、と呟いた。





455: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/02(火) 21:44:09.27 ID:iyM0Mdx3o



 ……この時、既に嫌な予感が全身の神経を通っていた。

 普通である様子が今の麗さんからは一切感じられない。
 それは本当に本人なのかどうかすら怪しいと思ってしまう程だ。


 シナプスが、不快な感情を伝達させる。


 聞きたくないという感情が一瞬にして脳に蔓延る。

 もしも聞いてしまったら。よくない感情が沸き起こってしまいそうな。



 しかし、彼女は続ける。


「翠が……倒れた」


 あまりに突然過ぎて、鼓膜が意味を通さなかった。





456: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/02(火) 21:44:36.76 ID:iyM0Mdx3o



「……え?」

 俺の反応は、極めて正常であったように思う。

 理解できなかったのは当然なのか、あるいは理解を拒否したのか。


 それでも彼女は振り絞って言葉を出す。

「倒れて――病院に運ばれた」


 聞かなければいけないのに、聞きたくないという意思が押し寄せる。



 どういうことだ。

 レコーディングもして、無事終わって、褒めて、笑って。

 昨日だって、レッスンに立ち会った時は翠は俺に笑いかけてくれて。
 仕事どうですか、疲れてませんか、って心配してくれて。

 彼女のほうが大変なのに、気遣ってくれて。


 ……それが、どうして。





457: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/02(火) 21:45:04.62 ID:iyM0Mdx3o



「すまない……すまない。私の目が曇っていた」

 搬送先の病院名を告げた後は、麗さんはひたすら悲痛な声で謝罪した。


 だが、そんな言葉は全く脳に伝わってこない。


 ただ今どうなっているのか。どうしてこうなったのか。
 何があったのか。

 そんな疑問ばかりが目の前を覆っていた。


「……すみません、切ります」

 居た堪れなくなって、俺は一方的に通話を切ってしまう。
 怪我なのか体調不良なのか、症状を聞くことも無く、持ち上げた手を下ろした。



 ――目の前の闇を振り払うには、確かめるしか無い。


 手元から落ちそうな携帯電話をかろうじでポケットに放り込むと、俺はスーツを破る勢いで走り始めたのだった。





458: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/02(火) 21:45:34.52 ID:iyM0Mdx3o



  *


「まあ大事をとってもニ、三日安静にしていればすぐ良くなるでしょう」
 彼女の診察を行った医師は、一つ息をついて翠の状態をそう表現した。

「……そ、そうですか」
 急いで来た癖に翠が倒れた理由を何一つ知らなかったため、心底安堵し、弾む鼓動が徐々に落ち着きを取り戻し始める。

「とりあえず今日はここで休ませられますから、薬の方も出しておきますね」
 医師はカルテらしきものにボールペンを走らせつつ、時折パソコンを操作した。


 とりあえず、アイドル生命に関わるような……翠の命に関わるような自体にならなかったことが俺を安寧に導いた。





459: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/02(火) 21:46:05.13 ID:iyM0Mdx3o



 ――翠は、軽い過労により誘引されたウィルス性の風邪と診断された。


 麗さんも救急車に同乗して当時の状況を説明し、改めて状態を確認したところ、救急救命士や搬送先の医師である彼はそう判断したという。
 喉は腫れ、熱もやや高く、放っておけば更なる悪化を招いていた可能性があるとも言っていた。

 ひとまず点滴治療を行なって熱は下がっていくだろうという話だが、疲労などは依然として色濃い。

 疲労と体調不良のダブルパンチが今回のアクシデントを引き起こしたのであった。



「アイドルが大変なのはわかりますが、水野さんもまだ未成年です。くれぐれも無理をさせ過ぎないように」
 医師から今後の治療法などの説明を受けた後、お見舞いに行こうと去る間際、医師は俺に釘を刺す。

 まるで異常な程の練習を強制させる悪徳プロデューサーと言わんばかりの冷たい言葉だった。

 無論、彼にそんな悪意はない。
 人命を救う立場の人間だからこそ、純粋に彼女を心配したのだろう。


「……はい。気をつけます」


 当たり前だ。そんなこと言われなくても翠は俺が一番わかってやれている。


 ……そう言い放ってやりたかったが、今の俺にはその資格がなかった。





460: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/02(火) 21:46:51.51 ID:iyM0Mdx3o



  *



 こつ、こつ、と形が潰れつつある黒い靴が床を鳴らす。

 白い床。白いソファ。白い制服。
 どこにでもあるような、まるで色を失った寂しい世界を俺は歩いていた。



 翠には個室を用意してくれたようで、医師からは321という番号が告げられていた。

 この階の病室は全て個室となっているのだから、この病院が多数の民衆の生命をカバーする大規模な施設であることは明白である。


 ただ、ひたすら歩く。

 頭の中にある番号の下へ、たどり着くために歩く。



 ……そんな道を歩いていると、嫌でも自分の姿がありのまま映された。





461: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/02(火) 21:48:13.16 ID:iyM0Mdx3o



 今回のアクシデントは誰の責任なのか、と自問する。


 …言うまでもなく、俺だろう。

 元々無理のあるスケジュールでレッスンを強行しなければならない状態に持ち込んだ事が原因なのだ。
 学園祭のライブでも似たような過密スケジュールだったにも関わらず無事乗り越えてしまったので、俺も心なしか油断してしまったのだ。


 何より、どうして気付けなかった?

 一番近くで見ていたはずの俺が、何故彼女の兆候に感づかなかった?


 あれほど近づいたのに、何故目に入らなかった?


 俺は、翠の白く綺麗な皮膚だけを見ていたというのか。





462: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/02(火) 21:48:38.79 ID:iyM0Mdx3o



 …彼女は元気だった。

 前日も、前々日も。一週間前も、その前も。

 レッスンでくたびれても、俺に微笑みかけて言葉を返してくれた。
 そして次の日には練習の成果を見せつけて、更なるレベルの向上に励んでいた。


 疲労を問うても、彼女は大丈夫と答える。
 具合を問うても、彼女は万全と答える。


 まるで、それ以外の答えは認めないかのように、翠はそう主張していた。




 俺は、彼女を追い詰めていたのだろうか。


 螺旋を描く罪の意識が、全身を嫌らしく舐め回していた。




463: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/02(火) 21:49:18.61 ID:iyM0Mdx3o



 俺と翠は、しっかりと繋がっていると思っていた。
 彼女は俺のことを好きだと言い、俺も彼女を良く思っていると言った。


 遥か昔の時代を語り、お互いの知らなかった心の奥底を晒すことで、信頼し合ったつもりであった。



 だがそれは、虚像…あるいは俺の妄想だったのである。


 もし翠は素直に疲れていることを俺達に申告していたら?

 練習内容を再チェックし、余裕のあるパートから負担を少なくし、また休憩時間やオフも多めに取るように変更しただろう。


 もし俺が翠の言う事を疑って、真剣に体調を調べていたら?

 すぐさま麗さんと話し合い、無理矢理にでも休暇を取り入れさせただろう。


 …それができなかったのは、彼女が俺を頼らなかったから。
 そして、俺が彼女の虚勢を本当の姿だと誤認したからなのだ。


 自身を顧みないで練習した理由については不明だが、もしも馬鹿げた妄想を述べさせてもらえるのなら――。



「サンニーイチ……と、ここか」
 俺の視界に321という三文字の数字が印字された看板が入り込んでくる。

 医師に指定された番号と合致し、ここが翠の病室だと判断して奈落へ沈んでいく暗い意識を消し去る。





464: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/02(火) 21:49:56.90 ID:iyM0Mdx3o



 重苦しい戸。冷たい取っ手。

 全く翠に似つかわしくない、こんなところに居るべきでない…簡素な扉だった。
 あのライブと比較すれば、天と地程に鮮やかさに差がある。


 右手を裏返し、ノックをする手つきに変える。


 どんな状態であるにしろ、絶対に休暇を入れよう、と決意する。
 真面目で練習熱心な翠のことだから、もしかしたら休むことに異議を唱えるかもしれない。

 だからこそ意地でも休ませなければいけないのだ。

 翠の意識の高さに自惚れた結果がこれなのである。
 多少彼女の意に沿わない形になろうとも、それだけは貫き通す。



 …まあ、今は何よりも翠の完治が先だ。

 左手には病院の売店で購入した飲み物やデザートなどを幾つか入れたビニール袋を携えている。
 今は休んでいいよ、と労いつつ、何てこともないような他愛もない話でもしようか。



 そう思って、小さくノックをする。




 ……それから静かに開いた扉の先には、信じられない光景が広がっていた。





465: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/02(火) 21:50:23.60 ID:iyM0Mdx3o



  *


 正直に言えば、自分の目が本当に自分の物なのか疑わしくなる程、眼前に現れた彼女の姿というものは異様であった。

 そう、異様。
 本来あるべき姿でない様子だ。

 もしかしたら彼女は翠に似ているだけの別人なのかもしれないという疑惑が一瞬頭によぎるが、少なくとも俺の意識は彼女を翠だと認識していた。

「あ……Pさん」

 『立っていた』翠が俺の姿を視認すると、ぺこりと頭を下げた。
 声色には、若干の威勢の良さが残っている。

「ご迷惑を…けほ、おかけして本当にすみません」
 汗などで汚れたいつもの練習着姿ではなく、入院患者が着る真っ白い綺麗な病衣を纏っている翠は、そう言って俺に謝罪する。


 そんな翠の言葉にすら、反応できない俺がいた。



 ……何故だ。


 何故翠は壁に手をついてまで練習の続きをしているのだ。


 まるで意に介していない、現実を受け止めていない彼女の様子に、俺の中の何かが切れた。





466: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/02(火) 21:51:13.30 ID:iyM0Mdx3o



「……なあ、翠」
 ゆっくりと俺は近づく。

「けほ…はい、なんでしょうか」
 一度咳き込んだ後、にこりと笑って翠は俺を迎える。


 翠は一体何を考えているのか、もうわからなくなってしまった。

 倒れたのは自身の体力を鑑みていなかったからだろう。
 病衣を着ているのは、安静にして治療をするためだろう。

 手が届く位置にまで近づくと、俺は無意識に翠の肩を掴んだ。
 瞬間、彼女の顔が歪む。

 決して軋むほど力を入れている訳ではない。
 苦しませようと掴んだ訳ではない。

 なあ、痛いんだろ?
 なあ、辛いんだろ?

 彼女の痛覚を思うと、顔の表面が急速に沸騰した。


「――なんで練習してるんだ!」

 噴き上がった熱のこもった感情が、怒号となって周囲に放出される。


 初めてだ。
 俺の知る限り、こんな声色をして翠に話しかけた事は一度もない。

 同様に彼女もそうだろう。
 一体何が起こったんだ、という表情で、困惑と恐怖が入り混じった顔をしている。


 だから俺は怒った。





467: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/02(火) 21:52:01.14 ID:iyM0Mdx3o



 言葉を続けることもなく、肩を掴んだまま彼女を無理矢理ベッドに寝転ばせると、おもむろに近くにあった簡素な椅子に腰を下ろして翠を見つめた。

 熱も下がっていくだろうという状態であろうとも、運動などご法度だ。
 それに痛みや怠さが完全に引いているという訳でもあるまい。


「…今の翠の状態は、君が一番わかっているはずだ」
 先ほどの口調とは反転して、なるべく穏やかに声をかける。

 沸騰した感情がオーバーヒートを起こさないように、黙々とした表情の裏で必死に頭を回転させていた。
 腹が立つからと言って、本能のまま喋っていい訳がない。
 それが許されるのは、せめて中学生の喧嘩ぐらいまでである。


 俺はプロデューサー。
 新米で、新人で、未熟で、無知だけど。

 翠の人生を引き受け明るい未来に導いていく、彼女だけの魔法使いなのだ。

 混濁して絡まっていく怒髪衝天の狂いを、そのままにしてはいけない。


「……っ」
 俺によって強制的に倒れこまされた翠は、露骨に俺から目を逸らす。
 無言なのは、俺の問いを肯定しているからだろうか。


 無理をして練習したって何の収穫も無いことぐらい、賢明な翠ならわかっているはずだ。

 なのに……どうして彼女は体に鞭打って練習をしているのか。





468: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/02(火) 21:53:07.07 ID:iyM0Mdx3o



 俺の中に集う疑問は、翠の蚊の鳴くような声が解決する。

「…練習しないと…けほ、間に合いませんから」


 そういうことか、と心の奥底で少しだけ納得する。
 そして、この時ほど『真面目』という言葉を恨んだことはなかった。


 翠の性格から推測するに、恐らく弱音を吐いてしまってはフェスで失態を犯してしまうという脅迫概念に追われていたのだろう。

 疲労が溜まって倒れたというのに頑なに練習を止めないその姿を見れば、彼女の思いを想像するには難くない。


 ただ、問題はそれが間違いだということだ。

 真面目という概念は、見方を変えれば愚直である。
 進むべき道、思うべき願い、目指すべき頂をしっかりと定めて歩くことはむしろ素晴らしいことだが、それらが狙い通りに運ぶという保証はどこにもない。

 そういった壁が立ちはだかった時に必要なのは、今自分が取り得る行動の中でどれが一番合理的で建設的なのかという問題提起なのである。


 しかし、翠はそれをしなかった。

 合同フェスという大きな壁を目の前にして、ある種の思考放棄をしてしまっていたのだ。

 真面目や練習熱心という言葉を盾に、ひたすら突き進むことだけが唯一の選択肢だと勘違いしてしまっていた。


 それが今の事態を招いた種火と言える。





469: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/02(火) 21:53:57.89 ID:iyM0Mdx3o



「…ほら」
 ベッドテーブルに載せたビニール袋から、スポーツドリンクを取り出して翠の顔の近くに置く。

 近くで観察すれば、きっと喉が赤く腫れ上がり、狭まっていることがわかるだろう。
 返事として改めて聞いた翠の声は、以前のような美しさを失っていた。


「…ごめんなさい」
 相変わらず視線をこちらに向けないまま、翠は小さく罪を認めた。


 ――いや、本人もわかってはいるのだと思う。

 それでも折れることが許されなかった雰囲気や重圧が、彼女の周囲を酷く曇らせていたのだ。
 もし理解していなければ、俺の言葉に耳を傾けてはいないのだから。

「喋るな。…痛いんだろ」
 ベッドに横になっている翠は無言でゆったりと頷いた。

 初めから俺に体調が優れない事を申告してくれていたら、初期治療でここまで酷いことにはならなかったのに。

 彼女の弱る姿を見て、やり場のない怒りがくすぶる。
 それは異変を打ち明けなかった翠に対してでもあれば、それを察せなかった過去の俺に対してでもある。

 そして同時に、打ち明けてくれるほどの信頼関係を構築できなかった俺の行動にも腹が立ったのだった。


 結局、無意識の内に俺は自惚れていたのだ。

 少なからず好意を抱かれ、はっきりと信頼していると口にされ、その気にさせられただけなのである。


 ……思いをあえて言葉にして伝える意味。
 それを理解していれば、もっと早く気付けていたのかもしれない。





470: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/02(火) 21:54:37.53 ID:iyM0Mdx3o



「…悪かった」
「そんな――ごほっ!」
 俺の言葉に反論しようとした翠の言葉は、咳によって強制的に中断される。

 咳も役立つことはあるらしい。
 少なくとも、喋ることに対しての抑止力という点では彼女へ有効的に影響していた。

「だから喋らないって…ほら」
 近くに置いたまま手を付けていないペットボトルを改めて手渡す。

 翠は上半身を亀が如き遅さで起こすと、パチリ、と封を切った。


 ――あの元気な少女がここまで弱るとは予想だにしなかった。

 無論、誰だって病気になるとこうなることは考えなくともわかることだ。

 しかし、彼女の言動や姿勢、今までの軌跡がその常識に霧を吹きかけていたのである。


 翠はドリンクを少し口に含んで苦しそうに飲み込むと、ふう、と息を吐いた。

 この調子だと、呼吸にすら苦しんでいるのかもしれない。


 余計な事を喋らせる前に、俺も退散したほうがいいのだろうか。





471: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/02(火) 21:55:15.67 ID:iyM0Mdx3o



「喋らなくていいから聞いて欲しい。とにかく今日から最低三日は休養とする。ちひろさんや麗さんには俺の方から言っておくから、自分のことだけを考えるように」

 既に冷えた頭で近々の予定を組み直す。

 電話口ですらあれだけ憔悴した表情を安易に読み取れたのだ、実際の所は麗さんも酷く落ち込んでいるに違いない。
 ベテランだからこそ、こういう事態に陥った時に冷静に切り替えて欲しいものだが、そうするためにも、話し合いを設ける必要がありそうだ。

 ともかく、翠に仕事の事を考えさせないようにしないと、また無理をしてしまうに違いない。
 ちひろさんには明日になるだろう退院後の翠の状態を少しでもいいのでこまめに診てもらうようにお願いすることにした。

 彼女も今仕事で忙しいのは俺も承知しているが、俺が翠に会えるのはこうして外に出ている間だけだ。
 実家での翠を見られるのはちひろさんだけなのだから、申し訳ないが止むを得まい。


 となると、電話で打ち合わせするよりも三人で一度きちんと集まって連絡し合うほうが絶対に良い。

 翠が搬送されたと聞いたのは午後を少し過ぎた頃。
 今もまだ日は落ちていないから、もしかしたら今日中に設けられるだろうか。





472: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/02(火) 21:55:53.91 ID:iyM0Mdx3o



 説明をしている間、翠は悔しそうな素振りを見せていた。

 迷惑をかけてしまったことへの罪悪感か、あるいは疲労に耐え切れなかったことへの不満か。

 どちらにせよ、今持つべき感情ではないことは明らかだ。

「…急ぐ気持ちはわかる」
 もはや当たり前のようになりつつある手つきで俺は翠の頭に手を置いた。

 喋るな、という命令のせいだろうか、上半身を起こしたままの彼女は俯いて何も言わない。

「明日も朝から来るから、ゆっくり休むこと。…何か欲しいものはあるか?」
 軽く何回かだけ頭を撫でると手を離し、立ち上がって足元の鞄を持ち上げる。

 命じておいて喋らせるのもどうかと思うが、今日一日はこの病室で過ごすことになるのだから何か入り用があるのかもしれない。

 何が必要かと考えれば、きっと小腹が空いた時に食べられる食品類や時間をつぶす雑誌類だろうか。

 念の為、事前に買っておいたゼリーなどをビニール袋から取り出して翠に見せていると、彼女は細切れた声で呟く。


 ――Pさんを、と。





473: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/02(火) 21:56:21.30 ID:iyM0Mdx3o



「…そうか」
 ビニール袋から手を離して元の椅子に座り、改めて彼女と向き合う。


 お望み通り、翠の傍に居ることにした。

 それで彼女の気が休まるなら、いくらでも俺の時間を使うといい。


 …思わぬことから生まれたこの空白の時間は、俺達だけで埋めることになった。





474: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/02(火) 21:57:14.91 ID:iyM0Mdx3o



  *



「…改めて申し上げる。本当にすまなかった」
 事務所に着くなり、俺の姿を視認した麗さんはかつてみたことのない程の角度で俺に頭を下げた。

 こちらも寒い中事務所に入ってまずは暖まりたいと考えるばかりだったので、突然の行為に狼狽えてしまう。


「おかえりなさい、プロデューサーさん。コーヒーを入れますのでソファにどうぞ」
 ちひろさんはそんな麗さんの肩を持って彼女を起き上がらせると、にこりと笑って給湯室へと向かっていった。

「座りましょうか」
「…ああ」
 こちらを悲哀の目で見る麗さんにひと声かけて、ソファに誘う。
 対面する彼女にはいつもの機敏さは全く見られなかった。



 午後になってから時間が経ち、空が暗くなりつつある事務所。

 数カ月前の明るい夕方もすっかり姿を消して、小学生が遊びから家に帰るぐらいの時間にもなれば、辺りからは自然と夜が出始めていた。


 病室での時間を過ごした後、ちひろさんに電話を入れて、急遽打ち合わせをセッティングしてもらった。
 俺は今回の件を麗さんから聞いた時、翠の事に集中するがあまりちひろさんへの連絡を忘れてしまっていたのだが、麗さんは俺へと同様に彼女へも報告してくれていたようで、比較的すんなりとこの時間を設けることができたのである。





475: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/02(火) 21:57:48.04 ID:iyM0Mdx3o



 ――翠の病室で過ごした時間はたった半日にも及ばなかった。

 喉を痛めているのでまともに会話すら出来ない上、饒舌に喋る程の気力も失われているようであったからだ。

 本人も、俺と会ってしばらくは体調不良であることを頑なに否定して健康さをアピールしていたものの、指摘されて認めた途端に病人らしく静かになってしまった。


 …認めることの大変さは、俺もよくわかっているつもりだ。
 そうすることは、すなわち失敗を自覚するということに他ならないからである。

 翠は仰向けになって布団を被り、物言わずじっと天井を見ていた。


 やはり、心の奥底では孤独感があったのだろう。
 辛いことを誰にも言えない状態が続けば、精神も摩耗していってしまう。


 布団から外に出した翠の手に俺のそれを重ねることで、いつのまにか彼女は目を閉じて意識を深層に沈めていた。

 それは病気だからか。
 あるいは、恐怖心だからか。

 どちらにせよ、次からは本意でもって俺と接してくれることを願うばかりだ。





476: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/02(火) 21:58:26.88 ID:iyM0Mdx3o



「すみません遅くなりました。どうぞ」
 麗さんに何と声をかければいいのだろう、と迷っていると、ちひろさんはフォローするが如く俺達の前に現れ、コーヒーをローテーブルに置いた。

「ありがとうございます。寒かったから余計に美味しく感じますよ」
 それに口をつけて早速胃に流し込む。

 俺はいつも砂糖を入れているので、言わなくてもちひろさんも理解して砂糖を適量入れてくれている。
 いつもの味が口に広がると、いよいよ事務所に帰ってきたな、という安心感が体に伝わった。

 一方麗さんはというと、目の前に置かれたコーヒーをただ見つめていた。

 今の彼女は見ていられない。
 ある意味、翠よりも深刻であった。


 しかし、前を見なければいけない。
 失敗して打ちひしがれるのは自由だが、責任ある立場である以上は、俺も麗さんも、逃げることは許されないのだ。





477: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/02(火) 21:59:00.42 ID:iyM0Mdx3o



 俺は温めて体を落ち着かせると、スケジュール帳とペンを取り出して、話を切り出す。

「…今回の件は、少なくとも麗さんだけの責任ではありません。一番近くで見ている私が気付けなかったんですから、言い方は変ですが仕方がないことでしょう。むしろ、体調不良であることを隠し通してきた翠の演技力に感心すべきですよ」

 褒めることじゃないですけど、と付け加えて笑ってみせる。
 今唯一できる精一杯の冗談だ。


 自分で言っていても、本当に驚くばかりであった。

 体に異変があれば、どれだけ取り繕おうとも無意識の内にどこかでほころびは出る。
 それすらも体の内に隠して俺達を欺き続けた翠の精神の強さは、まごうことなき本物である。
 何よりも、喉を痛めて声を出すのも辛かろうに、それでも麗さんに気付かせなかったという事実が色々な意味で俺を唸らせる。

 …それを今回以外の面で出してくれればな、と思うのだった。


「では改めてスケジュールの方変更して行きましょう。とりあえずは三日間は必ずオフにします。それからですが――」

 あの時翠に伝えた事を、一字一句間違わずに伝える。

 消沈しきっていた麗さんも、俺の言葉のおかげかどうかはさておき仕事をする程度の気力は戻ってきているようで、メモを取っていた。

「不幸中の幸いですが、翠の次の予定はフェスのリハーサルだけなので相手先にも迷惑はかかりません。休ませることに集中させたいと思います。…麗さんはどうですか?」
 静かにメモをとっていた彼女に質問をする。

 担当トレーナーなのだから、彼女なりの考えもあるのだろう。
 場合によっては俺の案よりも良い物を出してくれるに違いない。

「…いや、大丈夫だ。それでいこう」

 しかし、存外素直に麗さんは俺の意見に賛同した。
 まあ、翠の担当プロデューサーとして、翠の性格を考えた上で作り上げたものだからこそ麗さんは異論を呈さなかったのかもしれない。

 俺も、胸を張って翠のプロデューサーだと言えるようになりたい。
 そのためにも落ち込んでいる余裕はないのだ。





478: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/02(火) 21:59:49.50 ID:iyM0Mdx3o



 それからも、翠へのレッスンの方針や内容の吟味、今後こういった事を引き起こさないためにどうすべきかを話し合ったことで、結果的に白紙だったメモ部分の殆どが黒色に塗りつぶされてしまっていた。

 今回の件は、俺達全員にとっても悔しさの残る事である。
 それだけに対策という部分にも熱が入っていたのだ。

 麗さんも例外ではなく、こまめな状態観察について詳しく意見を出してくれた。
 彼女の経歴の大部分を俺は未だ知らないままではあるが、過去にだって一人や二人、失敗したこともあるのだろう。
 肝心なのはリカバリーであり、フォローである。

 若干特殊な素質とも言える翠のため、臨時でも責任強くいてくれていた。

 それもこれも皆、翠のことが大切だからだ。
 信頼しているからこそ、こうして話しあえている。


 …それだけに、翠が俺達を信頼しきってくれなかったことに一抹の悲しさを覚えるのだった。





479: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/02(火) 22:00:40.12 ID:iyM0Mdx3o



「――とまあ、こんな感じです。最後に何か意見はありますか?」
 訊ねると、両者とも首を横に振った。

 問題ない、ということだろう。

「わかりました。麗さんも急なのに来てくれてありがとうございます。…大事なのはこれからですから、よろしくお願いします」
「…勿論だ。全身全霊を持って尽くすことを誓おう」

 話し合いを経て、麗さんの目つきも変わっていた。

 それは翠が彼女と出会った時と同じ。
 変化を感じ、底に落とされたことで湧き上がる気力。

 俺の意思が少しでも彼女に伝わってくれることを願うばかりだ。


「ちひろも…この度はすまなかった。嫌な思いをさせて」
 麗さんは少し温度の下がったコーヒーを一気に飲み干してから立ち上がると、ちひろさんに対しても頭を下げた。

 ながらの行動でも、ありきたりな行動でもない。
 ゆっくりと、落ち着いて、それでいて強い意志で腰を折ったのだ。

 それは俺へ行った物とは少し違うような気がした。
 具体的にどうなのだ、と問われると回答に窮するのだが、俺と麗さん、ちひろさんと麗さんの関係の違いによるものなのだろうか?

「…いえ、無事ですから」
 それに対してちひろさんは静かにそう答えた。

 にこりと笑ってはいるが、事務所で仕事をする時はいつも一緒にいて彼女の顔を見ているのだから俺にはよくわかる。

 さっきのちひろさんの笑顔は、作っている。





480: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/02(火) 22:01:15.75 ID:iyM0Mdx3o



 それがどうしてか、この場で訊く蛮勇はない。
 しかし、理由や思惑について過去にも少し考えたことがあったので、一層疑問は深まっていくばかりだった。

 もし、タイミングがあれば――。

「麗さんもよかったら翠の顔を見に来てやって下さい。練習したがってますから」
 …いや、やめておこう。

 翠のために使う時間を、別の…言い方を顧みなければ、どうでもいい事のために使わなければいけない義理はない。

 少なくとも、それをすることが正解ではないだろう。

「わかった。今度ちひろの家に寄らせてもらうよ」
「…ちゃんと来る時は連絡してくださいね?」
 はは、と麗さんは笑う。

 久方ぶりに見る彼女の笑顔だった。

 絶対的に見ればたった一日や二日ぶりなのだが、あまりの空気の重さに、認識している時空が弄られてしまっていたのだ。





481: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/02(火) 22:02:19.01 ID:iyM0Mdx3o



「今回の件は本当に申し訳なかった。この事は真剣に反省し、次がないように全力で仕事にあたることを約束する」

 事務所の扉の前で麗さんは改めて謝罪する。

 とりあえずの帰宅先である彼女の所属する会社に車で送ろうと提案したのだが固辞されてしまったので、こうして事務所前で見送ることにした。

 麗さんも重々気をつけてくれるようだし、翠も…練習への気持ちに対してだけは問題なさそうだ。

「それはフェスの結果で判断させてもらいますよ」
「…キミも随分偉くなったものだな」
 そう言って、二人で笑いあう。

 正直に言って、心から笑っていられる状況ではない。
 しかし、関係改善のためには笑顔が絶対に必要なのだ。

 だから、無理をして笑うという程でもないが、少しぐらいは気持ちを底上げしておかないと不意にボロが出てしまいそうなので俺は笑った。


 明日の予定は翠を迎えに行くことから始まる。
 それからは流動的だが、翠の意思を尊重したいと思う。





482: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/02(火) 22:03:43.44 ID:iyM0Mdx3o



 ――冬の訪れには、翠だけの特別なイベントが待っている。

 それなのにこうなってしまった事は残念だが……いい機会だ、俺はこれを存分に利用することにする。


 麗さんが帰った後の事務所の中には、ちひろさんはかたかたとキーボードを鳴らす音だけが舞っていた。


 いつもの光景。
 少し違うのは、寒さが扉を貫通しており、事務所の中でも厚着をするか動いていなければ体がどんどん冷えてくる冬の独特の季節性だろうか。



 俺はカレンダーを見る。


 12月2日。

 間に合うかどうかはわからない。

 だが、翠が心から俺を信頼してくれるように、あの日のための準備をしたいと思う。





483: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/02(火) 22:04:28.47 ID:iyM0Mdx3o



  *



「ああ、あなたがちひろの言っていた?」
 名前を告げて十数秒。
 玄関の扉から一人の女性が出てきて、俺の顔を見るやいなやぴょんと跳ねる声を上げた。



 ――事務所から電車で数十分。

 近からず遠からず、電車通勤の距離としてはなかなか優秀な距離に位置する年季を感じさせる一軒家。
 割と古い町並みの中に上手く溶け込んだ、ある種風情を残しつつ平成の雰囲気を併せ持つ家に俺は来ていた。

 ここは、翠が現在寝泊まりしているちひろさんの実家だ。
 だが、その当人はここに居らず、彼女は今日も事務所で仕事をしている。


 どうして俺がここに居るかというと、予め連絡していた通り翠の見舞いに来たのだ。


 ちひろさんに日時を伝えると、彼女の母親に言ってくれていたようで、つい先程インターホン越しに名前と所属、目的を述べるとすぐに反応してくれた。

 母親はウェーブがかった茶髪で、それほど歳を召してはいないように見える。

 しかし態度は比較的落ち着いていて、それでいて元気そうな声色をしている。
 思ってみれば彼女とちひろさんにも何か類似点があリそうな気がした。





484: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/02(火) 22:04:59.00 ID:iyM0Mdx3o



「改めてご挨拶させて頂きます。シンデレラガールズ・プロダクションに勤めております、千川ちひろさんと同僚のPと申します」
 彼女の口ぶりから察するに、ある程度はちひろさんから俺のことについて話してくれているらしい。

 木製の艶のあるテーブルに対面して座ると、母親はへえ、と言っていた。

 リビングルームにはインテリア小物が棚に数多く並んでいて、どこかの国の装飾品類が異彩を放っていて目を引かれる。

 俺の実家はというと、家具はあるものの贅沢品などは少なく、こことはおおよそ対照的であった。
 決して裕福ではなかったが、かといって明日に困る程貧乏であった訳でもない。
 きっと両親が質素を良しとする性格だったのだろう。

 子供心では金がないのだと思っていたものの、いざ大人になって仕事に忙殺される日々が続くと、あまり家の中にお金を使う気も失せるというもの。

 この歳になってようやく、両親の気持ちというものが垣間見れたような気がした。


 その後はしばらく母親とちひろさんについての事務所内での仕事ぶりを質問され、それに答える時間が続いた。
 様相といえば、もはや尋問というべき食いつきっぷりである。

 やはり実の子供、それも娘とあれば行動が気になるのだろう。
 卒業して未だ音沙汰ない俺の両親に比べれば、随分と羨ましく思えた。





485: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/02(火) 22:05:30.19 ID:iyM0Mdx3o



  *


「ああ! そういえばそうだったわね!」

 翠の部屋はどちらでしょうか、という俺の問いに、彼女の目が覚める。
 ぽんと手を叩いて、忘れてたわうふふと笑う母親に俺も苦笑せざるを得ない。

 当然ちひろさんの母親と与太話をしに来たつもりではなく、目的は翠のお見舞いなのだ。

 ここ数日に関しては、完全休養という訳あって俺は翠と会わない時間が以前より多くなっていた。
 とはいっても、翠の方から些細な事でもメールが来るので状況は粗方把握はしている。


 しかし、彼女の顔が見れないのはどこか寂しく感じるのだ。

 最近では毎日顔を合わせるぐらいの頻度で合っていたので、たかだかこんな短期間でさえそう思ってしまう。
 いよいよ俺も翠にとり憑かれたかな、と心の中で嘆息した。


「二階の空き部屋を貸してやってるのよ。今は多分起きてると思うから、案内するわね」
 母親はそう言って椅子から立ち上がると、リビングルームを退室する。

 この家の構造的には他の一軒家のタイプと変わらない一般的なもので、リビングルームを出ると玄関の近くには二階へと続く螺旋状の階段がある。

 それを手すりと持ちながら上がる母親の後ろを俺も歩く。

 家の匂い。
 ちひろさんの着けている香水とはまた違った心地良い匂いがする。

 それぞれ家によって違ったっけな、と昔友達の家に遊びに行った時の事を不意に思い出して笑ってしまう。

 こうして他人の私生活を行う家にお邪魔することなど翠をスカウトした時以来だったので、どうにも感傷的になるのである。


 それだけ密度ある時間を過ごしてきたのだ。
 例え胡乱な感情で入ったこの仕事も、今となっては悪い気はしない。





486: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/07/02(火) 22:06:02.88 ID:iyM0Mdx3o



「ここよ。…後で飲み物も持ってくるから、ごゆっくりね」
 二階に登ると、二人が並行して通れる程度の廊下を少し歩いて、一番奥の部屋に案内される。

 木製の戸にはセロテープで何かを貼り付けていた痕跡があった。
 きっとこの部屋は遠い昔息子か娘かの部屋だったのだろう、とても古い跡が歴史を感じさせた。

「はい。何から何までありがとうございます」
 幾許か観察した後、母親に頭を下げる。

 仕事で関係を持っている少女とはいえ、他人を家にしばらく生活させるなど並の人間は許可できまい。
 とても広い心を持っているのだな、と素直に感心した。


 母親が下に降りたのを見届けると、改めて扉を注視する。

 いつも会っていて昨日もメールで色々話していたのに、いざこうして時間を空けて会うとなると、無意識に緊張してしまう。
 遠距離恋愛で久しぶりにあう恋人の感情はこのような感じなのだろうか。


 俺と翠の関係は決して恋人と呼ぶべきものではないんだけども。

 なし崩し的に感情を伝え合ったとはいえ、俺達は仕事仲間であることに変わりはない。
 そう言い聞かせることで、少しづつ高まる心拍数を抑えることにした。


 指の関節で扉を叩くと、こんこん、と綺麗な音が鳴る。
 扉が枠にきちんとはまっている証拠だ。廊下と扉の向こうに響く音に揺れがない。